東北地方最大の歓楽街、仙台市・国分町(こくぶんちょう)


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日本には全国各地に風俗街があります。東北の風俗街の中で人気なのが、宮城県仙台市にある「国分町(こくぶんちょう)」という街です。

国分町は「東北地方最大の歓楽街」といわれるほど、たくさんの男性客でにぎわっています。国分町の歴史は江戸時代(1603~1868年)に始まり、その後の明治時代(1853~1868年)で大きな変化を遂げました。

ここでは、仙台の国分町の歴史について紹介します。

明治時代に軍隊が駐留するようになり、大きく発展

国分町は江戸時代、商業が盛んな街として栄えました。国分町にはたくさんの人が訪れており、その中で宿場町(しゅくばまち)という「宿泊施設が集まった町」が形成されるようになりました。

宿場町では女性スタッフが男性客に食事を提供していました。ただ、店の女性スタッフの役割はそれだけではなく、男性客とセックスをすることもサービスの一環となっていました。こうして国分町は宿場町としてだけでなく、風俗街としても人気が高まりました。

ちなみに現在において国分町の読み方は「こくぶんちょう」ですが、江戸時代には「こくぶんまち」と呼ばれていました。

明治時代になると、「明治維新(めいじいしん)」という大規模な改革が行われました。

明治維新の際に明治政府は、東北地方を軍隊の拠点のひとつにすることを考えていました。そして軍隊の拠点設置の計画と合わせて1869年(明治2年)、国分町に政府公認の遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)を設置することを決めました。

政府が国分町に遊郭を設置することを決めたのには、理由がありました。

軍隊の拠点が設置されると、周辺地域にはたくさんの兵士が住むことになります。つまり軍の拠点がある地域の男女比は、男性が極端に多くなります。この状況をそのままにしておくと、兵士が性欲を我慢できなくなり、性犯罪を起こす可能性がありました。

そのため政府は遊郭を設置することで、周辺地域の風紀を維持しようとしたのです。

明治時代にはたくさんの戦争が起きるようになりました。日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)などが起き、国分町周辺にはたくさんの軍事施設が設置されました。そしてそのたびに、国分町には兵士が送り込まれるようになりました。

兵士の増加にともなって国分町の遊郭もにぎわい、国分町は順調に発展しました。国分町には料亭や芸者置屋(げいしゃおきや:芸をしてくれる芸者や風俗嬢が在籍している店)、歌舞伎座(かぶきざ:歌舞伎という江戸時代の演劇を見ることができる劇場)などが建ち並んでいました。

戦争によって打撃を受けるも、復興後に大きく成長

たくさんの人でにぎわっていた国分町ですが、昭和時代(1926~1989年)に入ると1939年から1945年にかけて、第二次世界大戦という大規模な戦争が起きました。この戦争中には宮城県でも「仙台空襲」という大規模な空襲に見舞われました。

国分町周辺には軍事拠点がたくさんあったため、国分町は空襲のターゲットとされました。そして国分町の歓楽街は大きな損害を受けました。

しかし戦後、国分町では復興が行われました。戦後の日本は「高度経済成長期」に入りました。都市化を目指して全国各地の地域が成長する中で、国分町も大きく発展するようになりました。そして1960年代(昭和40年代)ごろには、国分町は「最盛期」ともいえるような時期を迎えました。

さらに1973年(昭和48年)に起きたのが「オイルショック」という出来事です。オイルショックでは原油の価格が高騰し、それにともない物価が急に上がるようになりました。これによって日本では物が売れなくなり、不景気に突入しました。

国分町がある仙台市は、それまで東京に働きに出る人がたくさんいました。しかしオイルショックを転機として、仙台市の人材流出に歯止めがかかるようになりました。そのため国分町には、東京に行くのをやめた人たちが集まるようになりました。

1970~1980年代には、国分町は飲食店や風俗店が集まる歓楽街として発展するようになりました。

そのころは現在のソープランドである「トルコ風呂」が人気となり始めており、国分町でも営業されるようになりました。また、そのほかにもヘルスやラブホテルなども多数建ち並ぶようになり、現代の国分町の姿に近付くようになりました。

また、国分町では飲食店が開業される中で、ピーチリキュールとウーロン茶で作る「レゲエパンチ」というカクテルが開発されて人気となりました。

1986から1991年のバブル景気の時期には、国分町にたくさんの人が訪れるようになりました。

東北最大の歓楽街に成長

このような過程を経て、国分町は「東北最大の歓楽街」として繁栄するようになりました。

現在の国分町周辺地域には、2,000店を超える飲食店や風俗店が建ち並んでいます。バブルの時代ほどではありませんが、現在もたくさんの男性客でにぎわっています。

また、新しい店が登場しながらも、国分町には今でも芸者を呼ぶことができる昔ながらの料亭が営業されています。

仙台市の国分町は以上のような歴史を経て発展してきました。東北地方最大の歓楽街は戦争とともに大きく発展し、終戦後は高度経済成長期の波にのり、現在に至っています。

仙台・国分町でたくさん貼られた「ピンクチラシ」に対する取り組み

なお、街中でときどき目にすることがあるのが「ピンクチラシ」と呼ばれるチラシです。ピンクチラシは「壁や電柱に貼られている、風俗店のチラシ」のことを指します。

ピンクチラシがかつてたくさん貼られていた地域として、仙台の大規模な歓楽街である「国分町」があります。国分町ではピンクチラシの多さが問題となり、状況改善の取り組みが行われました。

そしてその結果2000年代初頭には、街頭でピンクチラシを見かけることがほとんどなくなるほどにまで状況が改善されました。

新聞で取り上げられたことが、取り組みのきっかけになった

国分町は昭和時代(1926~1989年)に大きく発展しました。昭和のころは日本全体が高度経済成長期に入っており、国分町もその流れで成長を遂げました。国分町に風俗店が増えるにつれて、ピンクチラシも増えるようになりました。

ピンクチラシは街中で見かけるため、さまざまな人が目にすることになります。ピンクチラシは成人男性にとっては興味が湧くものかもしれません。しかし女性や学生、子供には「良くないもの」である場合が多いです。

ピンクチラシが問題視されるようになったのは、著名な新聞であるニューヨーク・タイムズの日本版が「ピンクチラシの量があまりにも多い」と、国分町を取り上げたことがきっかけでした。

このニュースによって、世間の人々が「国分町はピンクチラシが多い」と思うだけでなく、世界の人々も「日本はピンクチラシが多い」というイメージを持つ可能性がありました。そのためこの事態を重く受け止めた国分町は、「ピンクチラシを街頭から失くすための取り組み」を積極的に行うようになりました。

国分町が行ったピンクチラシ排除の取り組み

国分町で始めに行われたピンクチラシ対策の活動は、「すでに貼られているピンクチラシをはがす活動」でした。

当時、国分町の街にある壁にはピンクチラシがたくさん貼られていました。「ピンクチラシが貼られていない壁が存在しない」といえるような状況だったのです。

国分町の周辺地域の人たちは「ピンクチラシをはがすことは店の営業妨害にあたり、してはいけないこと」と考えている人がたくさんいました。そのためピンクチラシが一度貼られると、長期にわたってはがされずに残っていたのです。

そこでピンクチラシに反対する団体は、率先してピンクチラシをはがす活動を行いました。

この活動によって、「ピンクチラシをはがすことは行って良いこと」というイメージが徐々に広まるようになりました。そして、ピンクチラシをはがす活動はさらに積極的に行われるようになり、地域の人たちもチラシをはがすようになりました。

こうした有志団体の取り組みによって、状況は改善していきました。

さらに国分町がある仙台市では条例を改正して、歓楽街の街頭にチラシを貼ることを禁止しました。条例によってピンクチラシを街頭に貼ることは違法行為となり、警察がピンクチラシを貼ろうとする業者を摘発できるようになったのです。

また、条例の改正によって、ピンクチラシを貼る人に対しての注意も積極的に行われるようになりました。

ピンクチラシを貼る人は、風俗店のスタッフかアルバイトが中心でした。また、違法行為となったことを知らずにチラシ貼りを続けている人がほとんどでした。そのため警察や団体のスタッフが違法行為であることを伝えると、ピンクチラシが貼られる数は減っていきました。

風俗店は違法行為と知りながらピンクチラシ貼りを続けると、店を摘発されてしまう可能性がありました。そのためピンクチラシ貼り行為は急速に減るようになり、状況は大きく改善しました。

現在の国分町では、印刷業者によってはピンクチラシの印刷を断ることがあります。こうした印刷業者は「ピンクチラシを貼るという違法行為に協力することはできない」と考え、自主規制をしているのです。

2000年代初頭には、国分町のピンクチラシは激減した

以上のような取り組みによって、国分町のピンクチラシは2000年初頭までにほとんど見かけなくなりました。国分町はピンクチラシを作らせない、貼らせない、貼ってもすぐに排除する、という取り組みを推進することによって、2000年代からはクリーンなイメージの歓楽街に変貌を遂げているのです。

こうした国分町の取り組みは、ほかの風俗街でも参考とされています。東京の渋谷や六本木にもピンクチラシはたくさん貼られていますが、国分町の取り組みを元にして、対策が検討されています。また、北海道の有名歓楽街であるすすきのではすでに取り組みが行われており、ピンクチラシが減少しています。

国分町のピンクチラシは、かつて「あまりにもひどい」と評価されてしまう状況でした。しかし現在はほかのピンクチラシが貼られている風俗街よりもきれいな街に変化しています。そして、各地の風俗街の見本となるまでに変化しているのです。


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