性風俗の歴史

違法ながらも江戸の各地に存在した「岡場所(おかばしょ)」

江戸時代(1603~1867年)に最も人気が高かった遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)は吉原ですが、違法に営業されていた「岡場所(おかばしょ)」という風俗街も人気でした。

岡場所は江戸の各地に存在しており、男性客は吉原よりも低価格で遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)との性行為を楽しむことができました。

岡場所は違法営業のため、江戸幕府から摘発される可能性がありました。しかし江戸幕府は、岡場所から税金を徴収することができました。さらに庶民から人気があったため、政府は岡場所をあまり摘発しませんでした。

岡場所の場所

それでは、以下に江戸にあった岡場所について紹介します。

江戸の中心部から向かいやすかった根津(ねづ)

根津(ねづ)は現代の東京都文京区にあたる地域です。現在は治安が良く、大学などの教育施設が多くある地域として知られていますが、江戸時代には風俗街である岡場所が存在していました。

根津には根津神社(ねづじんじゃ)というお寺があり、そのお寺の門の前に岡場所がありました。根津は江戸の中心部から向かいやすかったため、たくさんの男性客が訪れていました。そのため「岡場所随一の遊里(ゆうり:風俗街のこと)」と呼ばれました。

また、根津にあった遊女屋(ゆうじょや:風俗店のこと)は、吉原に似た仕組みとなっていました。根津の遊女屋には「陰見世(かげみせ)」と呼ばれる場所がありました。

吉原には「張見世(はりみせ)」という、通りに面した部屋がありました。張見世の壁は格子となっており、男性客が部屋の中をのぞくことができます。張見世には遊女が待機していて、男性客を誘っていました。

根津の陰見世も吉原の張見世と同じ仕組みとなっており、男性客は遊女を直接見たり、話したりすることで遊ぶ相手を選んでいました。

前述のように岡場所は、江戸幕府から摘発されずに営業していました。しかし1841年から始まった天保の改革(てんぽうのかいかく)により、根津を含めて多くの岡場所が摘発されました。ただ、根津は人気があったため、明治時代に入った1868年に営業を再開しました。

赤坂(あかさか)の遊女は「麦飯(ばくはん)」と呼ばれた

赤坂も人気の岡場所のひとつでした。江戸中心部の西部に位置しており、現代の東京都港区赤坂にあたります。かつては赤坂田町(あかさかたまち)と呼ばれていました。

赤坂には当時、宿がたくさんありました。

宿では旅人のために食事を提供するスタッフが働いていました。しかし多くの宿が建ち並ぶにつれ、宿の間での競争が激しくなりました。そうした中で、宿の女性スタッフと性行為をできる宿が登場しました。

宿で性的サービスをする女性は、食事の提供もしていたことから「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれるようになりました。

赤坂の飯盛女は吉原と比べられることが多く、「麦飯(ばくはん)」と呼ばれました。これは吉原の遊女を「米」にたとえると、赤坂の遊女は「麦」と考えられたことに由来しています。つまり、男性客は「女性の質では、赤坂は吉原に劣る」と考えていました。

赤坂の岡場所は、1787年に行われた「寛政の改革(かんせいのかいかく)」によって摘発されました。しかしその後再開し、大小合わせて約90軒もの遊女屋が建ち並ぶようになりました。赤坂は江戸時代後の明治時代に入っても繁盛していました。

吉原の10分の1の料金で遊べた上野山下(うえのやました)

上野山下は現在の東京都の上野駅周辺にあたる地域です。100軒を超える遊女屋が建ち並んでおり、非常に栄えた岡場所でした。

上野山下の遊女は「けころ」と呼ばれました。この名称は「女性が男性を蹴って転がしてでも店に立ち寄らせる」ことに由来しています。これはつまり、「けころが上野山下の道行く男性客に対して、強引な客引きをしていた」ことを意味しています。

ただ、けころと性行為するための料金は吉原の大見世(おおみせ)と呼ばれる高級店の約10分の1でした。男性客にとっては格安のため、積極的に利用する人がいました。

岡場所の中でも特に人気だった「深川七場所」

なお、岡場所の中でも特に人気だったのが、深川(ふかがわ)にあった「深川七場所(ふかがわななばしょ)」という7つの街です。以下では、深川七場所について紹介します。

深川七場所は行きやすい場所にあった

深川七場所は、全て「現在の東京都江東区」にありました。七つの場所はそれぞれ、新地(しんち)・仲町(なかちょう)・石場(いしば)・土橋(どばし)・櫓下(やぐした)・裾継(すそつぎ)・あひる、という名称でした。

深川七場所が繁盛した最大の理由は「交通の便が良かった」ためです。

江戸の街には、掘割(ほりわり)と呼ばれた「地面を掘って作られた用水路」がたくさん走っていました。掘割では船が運航されており、物資の輸送や人の移動のために船が使われていました。

深川には掘割が特に多くあり、深川七場所は掘割で船に乗るとスムーズにたどり着ける場所にありました。そのため、江戸の各地から深川七場所の風俗店へ行く人が多かったのです。現代でいうと、「タクシーで直接店の前に行く便利さ」に近いといえます。

深川の岡場所は「伏玉(ふせだま)」と「呼出し(よびだし)」に分かれていた

深川の岡場所はほかの風俗街にはない特徴がありました。岡場所にあった風俗店は、「伏玉(ふせだま)」と「呼出し(よびだし)」と呼ばれた2種類の店に分かれていました。そして、岡場所ごとに伏玉制か呼出し制かが異なっていました。

伏玉は「男性客が女郎屋(じょろうや:風俗店のこと)に来店して、セックスを楽しむ店」を指します。

一方、呼出しは「男性客が料理屋に来店して、女郎屋から遊女を呼び寄せる店」を指します。料理屋の奥には奥座敷(おくざしき)という部屋があり、そこで男性は遊女とセックスをすることができました。

現代でいうと、伏玉は一般的なヘルス(店舗型の風俗店)、呼出しはデリヘル(ラブホテルや自分の家へ風俗嬢に来てもらう無店舗型の風俗店)に似ています。

伏玉のサービスは遊女とのセックスのみでした。これに対して呼出しの場合、男性客は料理屋に遊女を呼ぶため、遊女と一緒に酒や食事を楽しむことがありました。そのため遊女とのプレイ料金に加えて飲食代がかかり、伏玉の店よりも料金が高くつきました。

しかし呼出しの料金は、「吉原の風俗店」よりは安くなっていました。吉原でも遊女と酒や食事を楽しめますが、その料金は高かったのです。

深川の岡場所は料金が高い「呼出し」のほうが格上で、料金の低い「伏玉」のほうが格下と考えられていました。深川七場所のうち、呼出しは「土橋・櫓下・仲町」でした。裾継とあひるは伏玉でした。

また、残りの深川七場所のうち、新地は「大新地(おおしんち)」という場所にあった女郎屋は呼出し、「小新地(しょうしんち)」の店は伏玉と、場所によって分かれていました。石場も「新石場(しんいしば)」にあった店は呼出し、「古石場(ふるいしば)」は伏玉でした。

深川の料理店が繁盛した理由は「遊女を呼ぶことができたため」

深川では、料理店が繁盛しました。この理由は、「男性客が遊女を呼んでいたため」です。深川の料理店を訪れる男性客は「友人や知人との食事」を口実にして、実際は呼出しで遊女とのセックスを楽しんでいました。

呼出しは吉原よりも手軽に利用できたため、吉原を頻繁に活用していた男性客が来店することはよくありました。

なお、呼出し制の岡場所七場所のひとつ、仲町には「梅本(うめもと)」や「山本(やまもと)」という特に人気の料理店がありました。江戸の上流階級の人物がたくさん訪れる店でしたが、奥座敷では昼間から男女の性行為が行われていました。

このように、深川七場所の風俗店は呼出し、伏玉と呼ばれる特徴的なシステムとなっていました。これに加えて交通の便が良く、人気の風俗街となっていたのです。

吉原と違法な風俗街「岡場所(おかばしょ)」との戦い

このように、江戸時代には吉原以外の風俗街として岡場所がありました。各地の岡場所は料金が高くて吉原で遊べない庶民にとって、非常に良い風俗街だったのです。

ただ、風俗の歴史を見ると、「江戸を代表する遊郭である吉原と、江戸の各地に存在した違法な風俗街である岡場所との戦い」と考えることができます。

吉原は「江戸のテーマパーク」として多くの男性客から人気となっていました。しかし、岡場所にその人気を徐々に奪われました。ここでは、吉原と岡場所の戦いについて紹介します。

伝統と格式の吉原、顧客志向の岡場所

吉原の特徴は「伝統と格式を重んじること」でした。

吉原では遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)と遊ぶためには独特のルールがありました。例としては「男性客は遊女や風俗店のスタッフに祝儀(しゅうぎ:チップのこと)を渡す必要がある」、「男性客が引手茶屋(ひきてぢゃや:現代でいう風俗案内所)を利用すると風俗店に優遇してもらえる」などです。

吉原ではこのようなルールがたくさんありました。そして、男性客は女性と性行為を楽しむために高い料金を支払う必要がありました。そのため、吉原は一般の人にとって気軽に通える場所ではありませんでした。

一方、岡場所は伝統や格式にこだわらず「顧客志向」に徹していました。「遊女と気軽に遊べること」がメリットで、女性の質によって高級店や格安店がありました。岡場所は現代の風俗街に近いといえます。

岡場所は吉原の顧客を奪うようになった

岡場所のシンプルなシステムは利用しやすく、吉原よりも岡場所で風俗遊びをする一般の人たちが増えました。

岡場所は違法な風俗街でしたが、摘発されずに各地に存在していました。吉原は町奉行所(まちぶぎょうしょ)と呼ばれた政治・警察機能を担っていた役場に岡場所の摘発を依頼していました。しかし、町奉行所は摘発には動きませんでした。

これは町奉行所が岡場所を利用していた庶民に配慮したわけではなく、「岡場所の摘発が面倒だったため」という理由が強いです。岡場所で放火や殺人などの事件が起きた際には、町奉行所は岡場所の摘発を行いました。しかしそのような重大なトラブルがなければ、町奉行所は岡場所を摘発しませんでした。

このような町奉行所の行動から、岡場所はトラブルが起きてもなるべく内部で解決するようにして、摘発を逃れていました。

吉原が値下げに踏み切った

岡場所は町奉行所によって時おり摘発が行われましたが、男性客からの人気は衰えませんでした。そのため吉原は1851年に、ついに揚代(あげだい:遊女と遊ぶための料金)の値下げに踏み切りました。

いち早く値下げに踏み切ったのは「万字屋(まんじや)」という風俗店です。万字屋は「遊女大安売(ゆうじょおおやすうり)」という引札(ひきふだ:広告のこと)を印刷して、吉原の街中で配布しました。

値下げの例として、「座敷持ち(ざしきもち)」という上級の遊女は、もともと金一分(きんいちぶ:)の料金でした。金一分は現代に換算すると約25,000円です。万字屋は銀十二匁(ぎんじゅうにもんめ)に値下げしました。

当時、金一分は銀十五匁ほどに相当しました。ここから換算すると、上記の例は元々25,000円だった料金を、20,000円に値下げしたことになります。万字屋はいち早く引札を配布したため、男性客が殺到して評判となりました。

また、万字屋では男性客が宴(うたげ)を開き、酒を飲むことがありました。万字屋にあった酒の入った樽が空になるまで、通常はひと月ほどかかりました。しかし、値下げして男性客が殺到してからは、わずか3日で酒樽が空になったといいます。万字屋の値下げは当時、非常に大きなインパクトがあったのです。

そして、これに対抗するように吉原の風俗店は次々と値下げに踏み切りました。金沢屋や若狭屋などが万字屋に続きましたが、特に金沢屋は「それまでの料金の半額」という破格の値下げに踏み切り、万字屋と同じく大人気となりました。

このように吉原は岡場所が人気になるにつれ、値下げに踏み切らざるを得ませんでした。吉原は伝統と格式を重んじる遊郭ですが、「より安くて良いサービス」を求める消費者に合わせざるを得なかったのです。

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