性風俗の歴史

風俗街として栄えた「宿場」と江戸にあった格安風俗店

江戸時代(1603~1867年)の遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)は吉原がナンバーワンでしたが、それに続いて人気だったのが宿場(しゅくば)と呼ばれた風俗街です。宿場は4カ所あり、品川・内藤新宿・千住・板橋の4カ所でした。

宿場は吉原と同じく「政府公認の遊郭」で、たくさんの男性客が訪れていました。

ただ、中には宿場のような風俗店に通えない男性もいたため、そうした人にとっては格安風俗店が人気でした。ここでは、江戸時代に存在した宿場や格安風俗店について紹介します。

宿場の中では品川が最も人気だった

4カ所あった宿場のうち、最も人気があったのが「品川」です。

宿場は政府から「働かせてよい遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)の人数」が制限されていました。品川の遊女の制限人数は「500人まで」でした。

これに対して内藤新宿・千住・板橋は150人でした。この数字から、品川が宿場の中でも抜きん出た街であったことが分かります。

ただ、制限人数が決められていたものの、宿場は政府の目を逃れて追加で遊女を受け入れていました。そのため、実際のところ品川には1,000人を超える遊女がいました。ちなみに、吉原にいた遊女の人数は最盛期には3,000人を超えており、ナンバーワンの地位は確固たるものでした。

江戸の市内を中心として地図を見ると、吉原は北にあり、品川は南にありました。そのため吉原は「北国(ほっこく)・北里(ほくり)・北洲(ほくしゅう)」と呼ばれることがありました。また、品川は「南国(なんごく)・南里(なんり)・南洲(なんしゅう)」と呼ばれました。

品川は吉原に次ぐ「ナンバーツーの遊郭」だったのです。

4つの宿場の特徴

4カ所にあった宿場は、それぞれで特徴が異なりました。

品川は海が近かったのが特徴です。千住は隅田川が近くに流れており、船を使って女郎屋(じょろうや:風俗店のこと)に向かう男性客が多くいました。また、品川や千住の女郎屋には船頭(せんどう:船を操縦する職業)の男性がたくさん来店していました。

江戸時代の船頭が詠んだ川柳に「千住女郎は 錨(いかり)か綱(つな)か 上り下りの舟とめる」という歌があります。

この川柳は、「千住の女郎(じょろう:遊女は女郎と呼ばれることがあった)に対して、川を上ろうとする船頭も下ろうとする船頭も興味を持った」ことを示しています。船頭たちにとって、千住は憧れの街だったのです。

品川と千住が水辺に近かったのに対して、内藤新宿と板橋は内陸部にありました。当時、物資の輸送手段として「馬」が用いられていました。内藤新宿と板橋の女郎屋には、馬方(うまかた)という「馬に荷物を乗せて運ぶ職業の男性」がよく来店していました。

内藤新宿で仕事をしていた遊女は、ときに品川の遊女の悪口を言うことがありました。悪口の内容は「品川の遊女は船頭の男性を相手にしているから下品だ。私は馬方の男性を相手にしているから、品川の遊女とは違う」というものでした。

宿場で最も格下だったのは板橋

4つの宿場の中では品川が最も人気でしたが、一方で最も格下だったのが「板橋」です。

江戸時代に詠まれた川柳に、「板橋と 聞いてむかひは 二人へり」という句があります。

この川柳では、長旅に出かけていたとある商店の主人が江戸に帰ってくることになりました。主人は品川の宿に到着する日にちを飛脚(ひきゃく:手紙や小さな荷物の配達人)に託して、親類や友人に知らせました。

友人2人は主人の到着場所が品川と聞き、「主人を迎えにいくついでに、品川の女郎屋に行こう」と考えました。

しかしその後、主人は予定を変更して板橋の宿に向かうことにしました。あらためて親類、友人に連絡したところ、それを聞いた上記の友人2人は「旦那(主人のこと)の到着は板橋になったのか? 品川の女郎屋に行けないのなら、主人を迎えにいくのはやめよう」と、計画を取りやめにしました。

この川柳からも、品川に対して板橋の人気は低かったことが理解できます。

かつての江戸にあった格安風俗店

このように、宿場は品川を筆頭として千住、内藤新宿、板橋があり、それぞれに特徴のある街でした。吉原も人気でしたが、宿場にもたくさんの男性客が訪れていたのです。

ただ、ランクの差はあるにしても、こうした政府公認の店はある程度の価格になります。あまりお金のない男性では、なかなか利用することができます。これを解決するため、格安店が存在します。

現代の風俗店は女性やサービスの質によって高級店や格安店があります。これと同じように、江戸時代(1603~1867年)の風俗店にも高級店や格安店が存在しました。

小部屋で性行為をする切見世(きりみせ)

江戸時代の格安風俗店として代表的なものに、「切見世(きりみせ)」という店があります。切見世は「局見世(つぼねみせ)」と呼ばれることもありました。

江戸には各地に「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれた違法営業の風俗街がありました。切見世は岡場所にあった店のひとつの種類でした。また、各地の岡場所によって高級店と切見世、どちらの形式の店が多いかは異なりました。

切見世は多くの場合、細い路地にありました。岡場所には路地に「長屋(ながや)」と呼ばれる細長い家が並んでいるところがありました。切見世は長屋で営業されていました。

長屋は仕切りで部屋が区切られています。切見世は2畳(3.64m2)ほどの部屋になっており、男性客はそこで遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)とセックスをすることができました。時間は10分と短く、現代でいう「ちょんの間(10〜20分間で女性とセックスをする店)」と同じシステムでした。

切見世があった路地の脇には「排水のためのみぞ」が掘られていました。

切見世の遊女は男性客との性行為を終えると、性器の洗浄を兼ねて放尿を行っていました。共同の便所まで行くのは手間がかかったため、遊女は敷かれていたみぞの板を外して放尿することがありました。

また、遊女は遊び終えた男性客を、放尿しながら見送ることさえありました。料金が高い店ではこのような対応はなく、切見世ならではの対応といえます。

なお、通行人が足を踏み外して排水のみぞに落ちないように、みぞの上には板が敷かれていました。

江戸の夜に出没した夜鷹(よたか)

格安風俗の二つ目の例として、江戸の各地に出没した「夜鷹(よたか)」という風俗嬢がいます。夜鷹は違法営業で、夜になると道行く男性に声をかけて性行為に誘いました。

江戸時代に流行していた性病に「梅毒(ばいどく)」があります。夜鷹は梅毒を持っている人が多く、男性たちの中では「夜鷹と性行為をすると梅毒がうつる」と評判になっていました。また、「梅毒がうつると鼻がただれ落ちてしまう」という噂もありました。

夜鷹は女性の質としては、非常に悪いものだったのです。

特に夜鷹が多かったのが、江戸にあった「吉田町(よしだちょう)」と呼ばれた場所です。夜鷹の多くは吉田町の裏長屋(うらながや:裏路地にあった長屋)に住んでいました。そして、夜になると吉田町から江戸の各地に出かけて男性に声をかけていました。

夜鷹は高齢の女性が多く、40~60代の女性が中心でした。

江戸時代では老婆といえる年代であり、老いによって白髪になっている女性が多くいました。そこで、なるべく若く見えるように白髪に墨を塗り、髪を黒く見せている女性もいました。

江戸時代でも現代と同じく、男性は若い女性を好みました。そのため、夜鷹は多くの男性から好まれませんでした。しかし、中には夜鷹と性行為をする人がいました。夜鷹と遊ぶのは武家屋敷(ぶけやしき:武士が住んでいた屋敷)の下働きの男性や日雇いで働いていた男性でした。

こうした男性も、「本当は吉原や岡場所の高級店で遊びたい」と考えていました。しかし給料が安いためこうした店に行くことができず、かわりに夜鷹と遊んでいました。

切見世や夜鷹では、男性が料金を支払わないことがあった

切見世や夜鷹では遊女と性行為をしたにもかかわらず、お金を支払わない男性がいました。

特に夜鷹の場合は女性が老婆であることが多く、性行為をする時間は夜でした。そのため、男性客はお金を支払わずに逃げ切ることができたのです。

ただ、こうしたトラブルへの対策として、夜鷹は「牛(ぎゅう)」という用心棒の男性を付けていることがありました。牛は夜鷹と一緒に生活をしており、現代でいう「ヒモ」にあたる存在でした。

牛は夜鷹が男性客と性行為をしているときに物陰に隠れ、行為が行われている部屋の監視をしていました。そして、お金を支払わずに逃げようとする男性がいると捕まえて、お金を支払わせました。

このように、江戸には吉原のような高級風俗街があれば、夜鷹や切見世といった格安店も存在していました。そして、こうした安い店も一定の需要があったのです。

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