性風俗の歴史

農村で行われていた夜這いや痴漢の風習

日本は長い歴史を持つ国です。ただし、日本史を学んでも、言及されている部分のほとんどは当時の権力者の政治内容や、都市部で起こった事件ばかりです。日本社会全体に影響を与えにくかった、田舎の農村などについては全くといっていいほど触れられていません。

しかし、江戸時代まで日本国民の9割は農民でした。つまり、農村は日本人9割のルーツといっても過言ではないのです。

そんな農村を知るためには、まず「夜這い(よばい)」という風習を理解する必要があります。なんといっても、夜這いこそが農村における最も一般的な生殖の儀式だったからです。また、この時代には痴漢が普通に行われていました。

夜這いの誤解

夜這いとは、男性が女性の家に侵入し性交に及ぶ行為を指します。「夜に女性のもとを這う」ような行為だったので、夜這いと呼ばれるようになりました。

この夜這いについての認識ですが、世間ではかなり誤解されているように見受けられます。夜這いという言葉のエロチックな響きからか、あたかも女性の合意なしに、無理やり犯してしまう行為であると考えられがちです。

しかし、実際には夜這いの決定権は女性にあることがほとんどでした。むしろ、女性の意思に反して犯してしまう男性がいたら、それは村八分(むらはちぶ:村の人から制裁を受けること)の対象にさえなってしまったといいます。

今でこそ夜這いという言葉には怪しい印象が付きまといますが、実は村の社会を支えるために極めて重要なシステムだったのです。

夜這いの詳細

夜這いは基本的に夜に行われました。村には若者組と呼ばれる青年団のようなものがあることが多く、その団体に属したメンバーが夜這いをする候補の女性の家まで赴きました。

村によって夜這いには取り決めがなされており、女性がその男性に気を持っていればOKであるところや、いくらかの米と引き換えに夜這いを許可するところなど、ルールは各村で異なっていました。

夜這いをすることによって、いつしか女性は妊娠することとなります。そうすることによって、その親となった男性は晴れて女性と結婚することができるのです。もっとも、夜這いに参加した女性は、複数人と関係を持っていることが大半であったため、親がその子供の本当の父かどうかはわからないことが多かったようです。

ちなみに、自分の娘に夜這いをさせることを、頑なに拒む両親も少なからず存在したといいます。これがいわゆる、「箱入り娘」の語源となったという説もあります。

夜這いを続ける意味

夜這いは、「村という共同体を、村内だけで完結させる」ことを目的に行われ続けました。例えば、生まれる子供がすべて村の誰かの子であれば、他の村の人に資産である土地を分けなくて済みます。

それに加え、夜這いというルールを課すことによって、村の中での性犯罪を未然に防ぐことも視野に入っていたのです。

とはいえ、夜這いばかりを続けていると、村の構成員の大半が近親になってしまうケースが現れます。近親者同士で子を作ってしまうと、遺伝子に異常が現れ、その子は障害を持って生まれてしまう可能性が高くなるのです。

そうなることも見越し、村外から嫁を招いたり付近の村と共同して祭りを開催したりして、積極的に外の血を取り込む期間を設ける場合がありました。ちなみに古い時代の祭りは、ほとんど乱交パーティに近かったとされ、今とは意味合いが大きく異なります。

夜這いが廃れた時期

場所によって夜這いが衰退した時期はさまざまですが、長く続いたところでも戦後には衰退したと考えられています。

GHQの統治を経て、農村にもテレビや自動車などの文化生活が普及したことにより、価値観が変容していったためだと推測されます。

今いる日本人も、先祖がよほど名のある名家でない限り、こうした夜這いによって繁栄してきた人々の子孫です。現在の価値観にそぐわないから不潔と考えてしまうのではなく、興味深い話として捉えましょう。

痴漢行為に寛容だった江戸時代

さらに、江戸時代は現代よりも痴漢に対しても寛容な社会でした。現代であれば犯罪としてすぐに通報されてしまう行為を、江戸の男性は平気で行っていたのです。

また、女性も痴漢行為に対してすぐに叫び声を上げたり抵抗したりせず、落ち着いた様子で対応していました。

江戸時代の痴漢は「よくあること」程度の認識だった

江戸時代は現代よりも性に対してオープンでした。江戸の街には遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)がたくさんおり、男性は日ごろから風俗街へ遊びに行っていました。

また、江戸時代の建物は木造でした。部屋の仕切りも紙や布で作られた「ふすま」や「屏風」で、性行為で生じる物音や女性の喘ぎ声は周囲に筒抜けでした。

こうした日常から、女性は痴漢行為を「よくあること」として考えていました。

また、逆に女性は痴漢行為をされることで、自分が「魅力のある女性」であることを再確認していました。つまり、痴漢をされても「まんざらではなかった」のです。

女性は男性に尻をつねられても平気だった

江戸時代の男性が女性に対して日常的に行っていたことに、「尻をつねる行為」があります。

江戸時代には「ひねり徳」という言葉がありました。「女性の尻はどれだけつねっても減ることはない、つねるだけ得なのだ」ということを意味しています。

男性は日常的に女性の尻をつねっていましたが、特に積極的に行われたのが「祭りの日」です。

祭りの日にはたくさんの男女が訪れて、楽しく過ごします。人が多ければ、それだけ人と人との距離が近くなります。男性は近くにいる女性の尻を見ていると性欲が湧き、尻をつねっていました。

男性は「祭りの日は無礼講(ぶれいこう:失礼が許されること)である。尻をつねっても女性に嫌われることはない」と考えていました。

また、祭りで尻をつねるのは「その女性に興味がある」ことを示す行為でもありました。そのため男性は気になる女性の尻を積極的につねり、出会いのきっかけにしていたのです。

女性によっては、たくさんの男性に尻をつねられすぎて、尻に赤い跡がたくさんつく人がいました。しかしそれも、「魅力ある女性であることを証明する勲章」だったのです。

銭湯は混浴だったため、痴漢は日常茶飯事だった

江戸時代は家に浴槽がない家が多く、銭湯を利用する人がたくさんいました。江戸時代の銭湯は混浴でした。性別や年齢に関係なく、ひとつの風呂に入っていたのです。男性は若い女性が入っているときには、女性の体を触る痴漢行為をしていました。

江戸時代において男性経験が少ない女性に「武家(ぶけ:武士の家)の娘」がいました。武家の娘が銭湯に入るときには、中年の女性が付き添いとして入ることがありました。

しかし、一般家庭の若い女性は、付き添いの女性をつけることはできませんでした。そのため、「痴漢行為をされるかもしれない」と分かっていながらも、銭湯に入っていました。そのため、リラックスして湯船に浸かることができませんでした。

こうした状況から、政府は銭湯の風紀を改善するために混浴を禁止しました。そして銭湯は入浴時間を男女で別にしたり、男湯と女湯で分けたりするようになりました。

こうして痴漢行為は減りましたが、その代わりに「男性が女湯をのぞく行為」が多発するようになりました。

さらに銭湯によっては、男性が女湯をのぞくことができる「覗き穴」が設けられている店がありました。女性は覗き穴があることに気付いていましたが、それを知りながら銭湯を利用していました。こうした女性は「男性から体を見られたい気持ち」があったと考えられます。

江戸時代が終わり明治時代(1868~1912年)に入った1890年、法律の改正によって混浴の銭湯は完全に禁止されました。

このように、江戸時代の痴漢行為は女性から寛容に受け止められていました。現代では考えられない文化ですが、かつての日本は今と大きく異なる風習があったのです。

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