吉原

江戸時代・遊女はお金に苦労していた

江戸時代(1603~1867年)における吉原の遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)は男性客の相手で忙しい日々を送っていましたが、合間に自由時間がありました。その時間を有効活用して、遊女は日々の生活を楽しんでいました。

ただ、お金については苦労することが多かったようです。ここでは「遊女が自由時間にどのようなことをして過ごしていたのか」、さらには「なぜお金に苦労していたのか」について紹介します。

部屋で過ごすことが多かった遊女

江戸時代の風俗店を妓楼(ぎろう)と呼びます。遊女は基本的に妓楼から出られず、自由時間の大部分は妓楼の部屋の中で過ごしていました。

妓楼は正午から「昼見世(ひるみせ)」という営業が始まり、夕方4時ごろに終わります。そして、日没から「夜見世(よみせ)」という営業が始まります。

遊女の起床は午前10時ごろだったため、「10時~正午」の2時間と「16時~日没」の約2時間が遊女の自由時間となっていました。

遊女は部屋で「戯作(げさく)」と呼ばれる江戸の俗文学の書籍を読んだり、三味線(しゃみせん)を弾いたりしていました。

また、男性客から届いた手紙を読むこともありました。江戸時代は読み書きができない人はたくさんいましたが、遊女は妓楼で読み書きを学んでいました。遊女が男性客と手紙のやり取りをすることで男性客の妓楼への来店を増やすことができるため、妓楼が勉強させていたのです。

さらに、手紙を読んでいる遊女に対して別の遊女が「どんな内容の手紙なの?」と聞くことがありました。遊女同士で男性客の話をすることは多くありました。そのため、遊女はお互いの馴染み客やそれぞれの男性客との関係の深さなども把握しており、手紙の内容が気になることもあったのです。

商人の相手

妓楼にはさまざまな商人がやってきました。「小間物屋(こまものや)」と呼ばれる日用品などを扱う商人、遊女が着る着物を販売する「呉服屋」、書籍を販売や貸し出しをする「貸本屋」などが定期的に妓楼に訪れていました。

遊女は商人が来るのを楽しみにしていました。着物を眺めたり、新刊本を借りたりするのが趣味の女性はたくさんいました。

遊女は妓楼の2階で自由時間を過ごしていましたが、商人は妓楼の2階へ上がることは許されていませんでした。そのため、商人が来ると遊女は1階へ降りて、商人の相手をしていました。

願掛け(がんかけ)

遊女は吉原にある九郎助稲荷(くろすけいなり)などの神社をときどき訪れて、願掛けをしていました。遊女はほかの地域に行くことはできなかったため、吉原内の神社に足を運んでいました。

多くの遊女は願掛けで、「遊女の仕事から抜け出したい」と願っていました。

遊女の人生は「苦界(くかい)」と呼ばれます。日々多くの男性の性的プレイの相手をする仕事は、女性にとっては大変なものです。妓楼は遊女をなるべくたくさん働かせていたため、体力的にも精神的にも、女性にとって大きな負担がかかる仕事でした。

遊女は年季(ねんき)という「仕事ができる期間」が決まっていました。「最長10年、27歳まで」と決められており、遊女は早く年季が終わるのを願っていました。

遊女に母親が面会に来ることもあった

また、妓楼に遊女の母親が面会に訪れることがありました。一般的には、母親が会いにきてくれると嬉しく感じる人が多いです。しかし遊女は、母親の訪れを嬉しがりませんでした。それは、「遊女にお金を求めることが多かったため」です。

江戸時代の当時、遊女の実家の多くは貧しい家庭でした。そのため、家計のやり繰りができなくなった両親が子供を身売りに出していました。身売りに出すと両親にはお金が入りますが、それだけでは足らずに吉原に訪れて、遊女として仕事をしている子供にお金を要求しました。

遊女は複雑な気持ちながらも母親と面会し、お金を支払うことがあれば、支払いをしないこともありました。

吉原の遊女はお金に苦労していた

このように、遊女は妓楼の自由時間でさまざまなことを行っていました。妓楼の営業が始まると遊女は忙しく仕事をしていましたが、自由時間は比較的落ち着いており、穏やかな時間を過ごしていました。

現代の風俗嬢も自由時間はありますが、江戸時代の吉原の遊女は現代とはまた違った過ごし方をしていたことが分かります。

ただ、実は遊女はお金に苦労することがよくありました。江戸時代における吉原の遊女は多くの男性を魅了し、非常に華やかな雰囲気がありました。吉原全体にこうした華やかさや活気があふれていましたが、本人たちは金銭のやりくりに大変だったのです。

遊女はお金の苦労が絶えなかった

江戸時代の吉原にあった風俗店を妓楼(ぎろう)といいます。妓楼に借金を抱えている遊女は多く、女性は働くことで借金の返済をしていました。そのためお金に余裕があることは少なく、常にお金のやり繰りに困っていました。

遊女は妓楼に住み込みで働いており、最低限の衣食住は保証されていました。しかし遊女としての仕事には、さまざまなお金がかかりました。

男性客の相手をするには衣装や髪飾りが必要です。また、化粧品や「髪油(かみあぶら)」と呼ばれる髪をきれいに整える油も必要でした。さらに、妓楼では部屋で男性客の相手をしますが、部屋で使用する枕や布団などの寝具も、遊女が購入して用意する必要がありました。

妓楼で働く遊女は上級と下級に分かれており、上級遊女は自分の部屋が与えられます。このとき、自分の部屋の畳が傷んできた場合、遊女が畳の張替え代を支払わなければなりませんでした。

このほかにも、冬に部屋を暖める炭の代金は自腹です。また、妓楼から提供される食事では足りないときに頼む「出前の代金」などでもお金が必要でした。

このように男性客からは華やかに見えていた遊女ですが、実際はお金に困っていることが多くあったのです。

「親が病気」の口実で男性客からお金を引き出した

遊女がお金のやり繰りをするためには、男性客からお金を引き出すしかありません。そのため遊女は男性と関係を深め、「できるだけ多くのお金を支払ってもらおう」と考えていました。

遊女がどうしてもお金が必要になったときによく使っていた口実が「親が病気になってしまい、朝鮮人参を買ってあげたい」というものでした。朝鮮人参は非常に高価なものだったため、親を口実に使うことで男性から多くのお金をもらうことができたのです。

江戸時代の当時は「親孝行は非常に良いこと」と考える人は多く、遊女の話を聞いて「自分にできることなら協力するよ」と遊女にお金を払う男性もたくさんいました。

ただ、男性客の中には「遊女が嘘をついている」ということに気付きながらも、女性への好意からお金を出した人もいました。

質屋に頼むこともあった

遊女はお金のやり繰りのために質屋を利用することもありました。遊女が持っている中挿(なかざし:髪をまとめておくための道具)などは高価なものもありました。質屋にこうしたものを持っていき、お金を借りていたのです。

上級遊女は禿(かむろ:遊女の見習いの少女)や若い者(わかいもの:妓楼の男性スタッフ)に質屋でお金を借りてくるように指示することがありました。ただ、遊女の持っているものでは、質屋でお金を借りることができないこともありました。

江戸時代の春本(しゅんぽん:風俗本)のひとつである「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)」には、「遊女が若い者に中挿を渡して、質屋で二分(にぶ:現在の5万円ほどの金額)のお金を借りてくるように頼む様子」が描かれています。

若い物は「中挿ではお金を貸してくれないですよ」と断ろうとしますが、遊女は「それでも借りてくるのがあなたの仕事だ」といって強く依頼しています。

妓楼は遊女にお金を貸したがった

質屋に対してお金を積極的に貸したがったのが妓楼です。遊女はもともと妓楼に借金をしており、その借金を返済するために妓楼で働いています。妓楼は遊女の借金を増やすことで、「より長く妓楼で働いてほしい」と考えていました。

例えば、遊女として正式に働くようになるときは盛大な披露会を開催し、このときの費用を妓楼が代わりに出すものの、実際は遊女の借金にするのです。

遊女にとって妓楼での仕事は早く辞めたいものだったため、妓楼からはできる限りお金を借りないようにしていました。そのために質屋などを利用し、生活のやり繰りをしていました。

遊女は非常に華やかな雰囲気をまとっていますが、実際はこのように金銭での苦労が耐えない生活を送っていました。お金のやり繰りの仕方から、遊女の人生の大変さを垣間見ることができます

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