現代も江戸時代も、男性は風俗店で風俗嬢と性行為をする人が多いです。しかし、中には「男性と性行為をしたい」と考える人がいます。江戸時代(1603~1867年)にも男性とプレイできる店が存在しており、「陰間茶屋(かげまぢゃや)」と呼ばれました。
ここでは、陰間茶屋について紹介します。
江戸時代に陰間茶屋は多くあった
陰間茶屋は陰間(かげま)と呼ばれる男性が在籍していました。現代でも男性が同性同士で性行為を行える店が存在しますが、そこで働く男性は自分から希望して働いています。一方、江戸時代の陰間茶屋にいた男性は、幼い頃に身売りに出されて陰間茶屋で働くようになった人が多いです。
江戸時代は貧困から子供を身売りに出す親がいました。男の子供を陰間として身売りに出すことで両親はお金を得ることができました。陰間茶屋で働くようになった男子は店で働いている先輩の陰間から技術を学び、お客様の対応をするようになりました。
陰間茶屋は江戸の各地にありました。1768年(明和五年)に発刊された「男色細見 三の朝(だんしょくさいけん さんのあさ)」には、明和のころ(1764~1772年)に陰間茶屋と陰間がどのくらい存在したかの記録が掲載されています。
この記録によると、特に多かったのが芳町(よしちょう)という町で、約10軒の陰間茶屋に約70人の陰間がいました。
これに次いで多かったのが堺町(さかいちょう)と葺屋町(ふきやちょう)です。2つの町を合わせてカウントされており、約15軒の陰間茶屋に約40人の陰間がいました。
遊女がいる風俗店ほどではないにしても、陰間茶屋は江戸に多くあったのです。
江戸時代の川柳には男色(だんしょく:男性同性愛)について詠まれた歌がありました。歌の多くに「芳町」という言葉が使われており、「男色」を連想させるようになっていました。
歌舞伎役者が副業で陰間として働くことがあった
芳町や堺町、葺屋町に陰間が多かったのは、これらの町の近くに芝居小屋があったことが関係しています。芝居小屋では歌舞伎が行われていました。
経験の浅い若手の歌舞伎役者は、生活のための収入を得るために陰間茶屋で働くことが多くありました。歌舞伎役者を目指す男性は美少年が多く、陰間としても十分な人気を得ることができました。そのため、生活費を得るためには最適な仕事だったのです。
若いころに陰間として仕事をしていた男性の中には、のちに有名な歌舞伎役者になった人がいました。
陰間茶屋は時代の経過とともに減少した
明和の時期(1764~1772年)にはにぎわっていた陰間茶屋ですが、文化(1804~1818年)のころになると、陰間茶屋の人気は衰えました。しかし、これは男色を好む男性がいなくなったためではありませんでした。陰間茶屋が少なくなった理由は2つあり、「僧侶の行動が変化したため」と「流行となっていた武士の男色が終わったため」です。
お寺の僧侶はもともと女性との性行為を禁止されていました。そのため、僧侶は陰間茶屋を利用することで性欲処理をしていました。
しかし文化のころになると、僧侶はルールを無視して遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)と性行為を楽しむようになりました。そのため、陰間茶屋を利用する僧侶が大きく減ったのです。
また、江戸時代の初期のころは、武士の間で男色が流行していました。
江戸時代の前の戦国時代や安土桃山時代には戦が頻繁に行われていました。戦中は武士が女性と性行為をできず、かわりに男性と性行為をすることがありました。
そして、その影響が江戸時代の初期にも続いていたのです。しかし、江戸時代の中期ごろになると、男色に関する流行は落ち着いていきました。
こうした経緯から、かつて9カ所あった陰間茶屋地帯は、時代が進むにつれて芳町、湯島天神門前(ゆしまてんじんもんまえ)、芝神明門前(しばしんめいもんまえ)の3カ所のみになりました。
陰間茶屋のプレイ料金が高めだった3つの理由
このように江戸時代にも同性愛を好む男性はいて、陰間茶屋はにぎわっていました。同性愛も江戸時代の風俗文化のひとつといえるのです。
そして、陰間茶屋で性行為をするための料金は、女性の風俗嬢とのプレイ料金よりも高い傾向にありました。これには3つの理由があります。
ひとつ目の理由は、陰間(かげま)と呼ばれた「男性と性行為を行うスタッフ」が少なかったためです。
男色(だんしょく:男性の同性愛)を好む男性は、女性を好む一般男性に比べると少なかったものの、それ以上に陰間の人数には限りがありました。需要と供給のバランスから、陰間茶屋の料金は高くなっていました。
2つ目の理由は、「陰間は短時間で何度も射精をすることができなかったため」です。
女性の風俗嬢である遊女(ゆうじょ)は、同時に複数人の男性を相手にすることができました。しかし陰間は一度射精をすると、しばらく男性器が勃起しなくなります。このため、1日に対応できる男性客に限りがあり、料金が高くなりました。
3つ目の理由は、「男性客は陰間との性行為の前に、料理やお酒を合わせて楽しんだため」です。男性客は陰間茶屋に直接行って陰間とプレイするのではなく、陰間茶屋から料理店に陰間を呼び寄せて性行為を行いました。現代でいう「デリヘル」に近い仕組みです。
プレイする場所が料理店のため、男性客は先に料理などを注文することができました。そのため、必然的に料金が高くなりました。
余談ですが、江戸ではそばを食べる人が多くいましたが、陰間はそばを食べることができませんでした。そばを食べるときには音が立ちやすく、下品な印象になってしまうためです。
これら3つの理由から、江戸時代の女郎屋(じょろうや:女性が在籍していた風俗店)よりも陰間茶屋の料金のほうが高い傾向にありました。そのため、江戸時代の一般男性はなかなか利用できませんでした。
陰間とのプレイ内容
陰間は多くの場合、遊女と同じように振袖を着ていました。陰間は美少年が好まれたため、衣装も振袖を着ていたのです。また、駒下駄(こまげた)と呼ばれる履物を身につけ、音を鳴らしながら男性客のもとにやってくるのが一般的でした。
床の間に二人で入ると、まずは会話を楽しみました。料理店のため、お酒を飲みながら話すこともありました。陰間は京都出身の男性が多く、言葉遣いがゆったりとしていました。また、陰間は美少年のような容姿の人が多く、男性客は会話だけでなく見た目も楽しむことができました。
こうして良い雰囲気になってきたところで、プレイの準備が行われます。準備は陰間が行うこともありましたが、多くの場合は陰間茶屋のスタッフがタイミングを見計らって来て準備してくれました。
性行為の際には「ねりぎ」と呼ばれる薬が使われました。ぬめりのある薬で、現代でいうローションにあたります。陰間はねりぎに唾液を混ぜて、自分の男性器や肛門に塗り付けました。また、男性客にも同じようにねりぎを塗り、密着度の高いプレイを行いました。ねりぎのかわりに「ごま油」が使われることもありました。
陰間茶屋を利用する流れ
男性客が陰間茶屋を利用するときには、まずは料理店に向かい「陰間と遊びたい」と料理店のスタッフに伝えました。その後、料理店のスタッフが陰間茶屋に連絡し、陰間を派遣するという形になっていました。男性客は料理店の2階に案内され、料理店の2階が「床の間(とこのま)」と呼ばれるプレイをするための部屋となっていました。
床の間には屏風があり、陰間と男性客は脱いだ着物を屏風にかけて床に入りました。
陰間茶屋が利用する料理店は、宿泊できるようになっていました。そのため、男性客は陰間と床に入ると夜通しで性行為を楽しむことがありました。
陰間茶屋はこのように料金が高く、通常の女性が在籍している風俗店とは異なる特徴を持っていました。そして、女性にはない陰間の魅力に気付いた男性が積極的に利用していたのです。