性風俗の歴史

江戸時代の変わった風俗店:水茶屋、湯女風呂、売比丘尼

江戸時代(1603~1867年)には現代でいうカフェや喫茶店にあたる「水茶屋(みずぢゃや)」という店が存在していたり、お風呂で女性が男性の体を洗ってくれる「湯女風呂(ゆなぶろ)」、コスプレサービスを女性である「売比丘尼(うりびくに)」など、さまざまな風俗の形態が存在します。

ここでは、それらの風俗店について紹介していきます。

江戸時代のカフェ、水茶屋(みずぢゃや)

江戸の各地には水茶屋がたくさんあり、男性はお茶を飲んで休憩をすることができました。表向きは普通の飲食店でしたが、男性客は水茶屋で性行為を楽しむことができました。

水茶屋で働く女性は人気があった

水茶屋は各地にあった神社の境内(けいだい:神社の敷地)にありました。江戸時代は徒歩で移動する人が多く、歩き疲れたときに休憩を取っていました。そのときに人々が立ち寄ったのが水茶屋です。当時はたくさんの水茶屋が建ち並んでいました。

水茶屋では現代のカフェと同じようにスタッフが注文を取りにきてくれます。男性はお茶を頼み、旅の休憩を取りました。

水茶屋のお茶の料金は1杯で八文(はちもん)が相場でした。現代の金額に換算すると160円ほどの金額にあたります。しかし、男性客はこれに加えて「チップ」を支払うことがありました。

チップの金額はお茶の料金より高く、中には「百文」などの高い金額を払う人がいました。男性客がこのような高額なチップを支払った理由は「水茶屋にいる女性スタッフにアピールするため」でした。

水茶屋のスタッフの女性は江戸時代の男性から高い人気があり、「アイドル的な存在」だったのです。江戸時代の水茶屋は、現代の「メイド喫茶」に近い雰囲気だったといえます。

水茶屋によっては性的サービスを提供していた

男性客は水茶屋の女性にチップを支払うだけではありませんでした。水茶屋によっては店の女性スタッフによる性的サービス(セックス)を提供している店がありました。

江戸時代に詠まれた川柳に、「裏おもて ある水茶屋は はやるなり」という句があります。これは「裏で性行為のサービスがある水茶屋はよく流行っている」ことを意味しています。

江戸時代に政府に認められた遊郭(ゆうかく:風俗街)は、最大の風俗街であった吉原と、品川・新宿・千住・板橋の「宿場(しゅくば)」と呼ばれる場所だけでした。ほかの地域の風俗街は違法営業で、摘発の対象になりました。

水茶屋が性的サービスを提供することも、違法営業にあたりました。しかしたくさんの水茶屋がある中で経営を続けるために、裏で女性との性的サービスを提供する店があったのです。

水茶屋は、男性客が「店の女性目当て」で来店することが分かっていました。そのため美人な女性を積極的に雇い、従業員として働かせていました。

水茶屋の女性は「看板娘」として評判になることがあった

水茶屋の女性の中には「看板娘」として特に評判になる女性がいました。その中でもひと際の存在感を放っていたのが「笠森おせん(かさもりおせん)」という女性です。

笠森おせんは江戸の中でも美人といわれていた「江戸の三大美人」の一人でした。そして人気の浮世絵師(うきよえし:浮世絵を描く人。浮世絵は江戸時代の絵画のジャンルのひとつ)であった鈴木春信(すずきはるのぶ)がその美しさに注目し、モデルとして描くことがありました。

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江戸時代には、吉原の華やかな雰囲気の遊女(ゆうじょ:風俗嬢)が人気でした。しかし、笠森おせんは吉原の遊女とは対称的な「自然な美しさ」を感じられる女性でした。また、チップは絶対に必要なわけではなかったため、男性は「お茶1杯の料金で会うことができる女性」だったのです。

こうしたことから笠森おせんはアイドル的存在として高い人気を誇りました。

また、ほかにも難波屋(なんばや)という水茶屋にいた「おきた」や、湊屋(みなとや)の「おろく」なども人気でした。男性はこうした女性がいる水茶屋に行くだけでなく、女性を描いた浮世絵を集めることもありました。

このように江戸時代のカフェであった水茶屋は、美人な女性に会うことができ、店によっては女性と性行為を楽しむことができました。水茶屋は現代のカフェとは大きく違っていたのです。

通常の風俗店とは違った店、「湯女風呂(ゆなぶろ)」

また、江戸時代に人気があったのが「湯女風呂(ゆなぶろ)」です。湯女(ゆな)と呼ばれる女性が男性客の体を洗い流してくれて、性的プレイを楽しむことができるサービスでした。

湯女風呂は吉原よりも手軽に遊べるため人気だった

江戸時代の有名な遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)に「吉原」があります。吉原は伝統と格式を重んじる街で、風俗店の料金は非常に高くなっていました。これに対して湯女風呂は、低料金で利用することができました。

湯女風呂の料金が安かった理由は2つあります。「吉原に対抗するため」と「もともと湯女風呂は普通の銭湯として営業していたため」です。

江戸時代の家には風呂がなく、銭湯に行くのが一般的でした。そのため江戸の街にはたくさんの銭湯がありました。それぞれの銭湯が競争をするようになり、「さらに良いサービスを提供する必要がある」として始まったのが湯女風呂です。

「もともとの銭湯を湯女風呂にする」ことで元の料金から大きく値上げしてしまうと、お客様が来なくなる可能性がありました。そのため湯女風呂は低料金を維持しながらも、湯女による性的サービスを提供したのです。

湯女風呂のサービス内容

湯女風呂に行くと、男性客は脱衣所で服を抜いで風呂に入ります。現代では体を洗ってから湯船に浸かるのが一般的ですが、江戸時代は「先に湯船に浸かって体を温めてから体を洗う」のが一般的でした。

湯船に入ったあと、男性は湯女に体を洗ってもらったり、背中を流してもらったりすることができました。さらに「垢かき」というサービスもありました。垢かきは、「男性が湯女に体についた垢をこすって落としてもらえるサービス」です。男性は裸の女性を楽しみながら、体もきれいにしてもらうことができたのです。

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湯女風呂のサービスは浴場の中だけでなく、脱衣所に戻ってきてからも続きました。

脱衣所には「金の屏風が立てられて座敷のようになっているスペース」がありました。男性客はそのスペースの中で、食事やお酒を楽しむことができました。そのときには湯女が同席してくれて、性的サービスを楽しむことができました。

さらに、食事のときに芸者(げいしゃ:芸を行う人)が三味線(しゃみせん)や歌などを披露してくれて、宴(うたげ)を楽しむことができました。

吉原でも遊女との性的プレイと合わせて宴を楽しむことができました。しかし湯女風呂は吉原に比べて非常に安く、江戸の町人(ちょうにん:町に住む人)や下級武士から圧倒的な支持を得ました。そして、「吉原以上の繁盛ぶり」といわれることさえありました。

湯女風呂の繁盛ぶりは長く続かなかった

このように湯女風呂は非常に繁盛しました。しかし、1637年に江戸幕府は「風紀上問題がある」として、湯女風呂に対して規制を設けました。

規制前、ひとつの湯女風呂には30人ほどの湯女が在籍しているのが一般的でした。しかし規制後は、「ひとつの湯女風呂に在籍できる湯女は3人まで」とされました。湯女が3人だけでは、湯女風呂は十分なサービスを提供することができず、徐々に衰退することになりました。

規制が設けられた当時、湯女風呂は非常に繁盛していました。しかしこの繁盛した状態が続くと、政府公認の遊郭であった吉原の売上が大幅に落ちてしまう可能性がありました。湯女風呂への規制は、当時の風紀を守るためではありましたが、「吉原を守るため」でもあったのです。

湯女を置けなくなった湯女風呂は、通常の銭湯に戻りました。宴が楽しめた脱衣所は、男性の休憩所に変化しました。男性は風呂上がりに休憩所で将棋をしたり本を読んだりして、リラックスして過ごしていました。

このように湯女風呂は、低料金で性的プレイを楽しめるサービスとして大人気となりました。現代ではソープランドで女性と風呂に入ってのプレイを楽しむことができます。銭湯の浴場で女性の性的サービスを楽しめる湯女風呂は、江戸時代ならではのサービスだったのです。

コスプレサービスを提供していた江戸時代の風俗店

現代ではコスプレをした風俗嬢とプレイを楽しめる風俗店がたくさんあります。江戸時代にも、コスプレをした女性と性行為をすることができるサービスがありました。

江戸時代には、現代で人気のコスプレであるメイド服や女子高生風の制服、ナース服などはありません。江戸の女性がどのようなコスプレをしていたのかは興味深いといえます。

コスプレをした風俗嬢「売比丘尼(うりびくに)」

江戸時代にコスプレをした女性は「売比丘尼(うりびくに)」と呼ばれました。

比丘尼(びくに)は「日本各地を渡り歩く尼僧(にそう:出家した女性)」のことを指します。売比丘尼は本当の比丘尼ではなく、遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)が比丘尼を真似た服装をした人です。売比丘尼は男性に性行為のサービスを行いました。

売比丘尼は「江戸にある熊野神社(くまのじんじゃ)という神社の比丘尼が、生活に困ったことから売春を行ったことが始まり」と考えられています。

比丘尼が得たお金は生活のために使われましたが、寺の運営資金に充てられることもありました。そのため寺では尼僧の売春を「良くないこと」として考えず、「信仰深い厳粛な行為」として考えていました。

比丘尼の服装は、江戸時代の男性にとって魅力的でした。

江戸時代に人気となった遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)に「吉原」があります。吉原の遊女は華やかな衣装を身にまとっており、濃い化粧をしていました。

一方で比丘尼の容姿は、「吉原の遊女の逆」ともいえるものでした。厳粛な服装をしており、化粧も簡素なものでした。しかし、男性客はこのシンプルさに「女性本来の美しさを楽しめる」として魅力を感じました。また、尼僧の女性には「スタイルの良い美人」が多いことも、男性が比丘尼を好んだ理由でした。

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このように比丘尼は男性に人気だったことから、遊女は男性客を増やすために比丘尼の服装を真似るようになったのです。

売比丘尼は外国人から驚かれた

江戸時代のころから、日本には外国人が来日していました。日本にきた外国人は売比丘尼を見て、「日本ではシスター(海外の尼僧のこと)が売春活動をしている」と驚きました。

海外では、シスターは「神聖な存在」と考えられていました。そのため、風俗嬢がその服装を真似て売春をするのは「あり得ないこと」でした。

そのため、日本にきた外国人は日本と海外の文化の違いに非常に驚いたのです。

売比丘尼のサービスは「デリバリー方式」だった

江戸時代の風俗店の多くは店を構えており、そこに男性客が来店して性行為を行いました。しかし売比丘尼のサービスは当時では少ない「出張(デリバリー)方式」の店でした。

現代でも風俗のサービスのひとつである「デリヘル」では、女性を自宅やホテルに呼んでプレイを楽しむことができます。これと似たシステムが江戸時代にもあったのです。「売比丘尼は今のデリヘルのルーツ(起源)だった」と考えられています。

男性客は売比丘尼との性行為を楽しみたいと思ったら、売比丘尼が在籍している「待機所」に行きます。待機所でサービスを利用したいことを伝えると、男性客は性行為をしたい場所に行きます。そして売比丘尼がくるのを待ち、セックスを楽しみました。

もともと売比丘尼は、常連の男性客のもとを定期的に訪れてサービスを行っていました。しかし徐々に売比丘尼が人気になると、規模が拡大するようになりました。そして、売比丘尼が集まる「中宿(なかやど)」という待機所に発展しました。現代でいう、いわゆる「コスプレ専門店」です。

このように江戸時代にも、「売比丘尼」というコスプレを楽しめるサービスがありました。現代ではさまざまな風俗店でコスプレサービスが提供されています。江戸時代の売比丘尼は出張サービスが基本で現代ほどの人気はありませんでしたが、男性客から支持されるサービスのひとつだったのです。

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