現代では男性だけでなく、女性も自慰行為(オナニー)をすることがあります。江戸時代(1603~1867年)の女性も、性行為をする男性がいないときにオナニーをすることがありました。他にも、江戸時代であっても女性は不倫をすることがありました。
ただ、現在のような避妊方法は確立されていません。そのため、女性の避妊は大変でした。こうしたことを踏まえ、ここでは江戸時代の女性の性事情について解説していきます。オナニーから避妊、生理についてまで解説していきます。
江戸時代の女性は張形(はりがた)を使ってオナニーをした
江戸時代の女性がオナニーに使ったのが「張形(はりがた)」という道具です。現代でいう「ディルド」にあたるものです。ディルドは男性器の形をしており、プラスチックでできているものが多いです。これを性器に挿入することで、女性は刺激を得ることができます。
江戸時代の張形はべっこう(ウミガメの甲羅の加工品)や水牛の角を主な素材として作られました。形は現代と同じように男性器の形をしていたため、「男形(おとこがた)」や「男茎(おわせ)」などと呼ばれることもありました。
張形の値段は、安価なもので一分(いちぶ)ほどでした。これは現代の2万5千円に相当します。さらに高級品になると二~三両(りょう)ほどでした。
一両は現代の10万円に相当するため、20~30万円だったことになります。安価な商品でも一般の女性は購入することができず、裕福な家の女性が購入していました。
また、張形を購入できない一般の女性は、代わりとして野菜の「にんじん」をオナニーに使いました。包丁で好みの太さに削り、水に浸けることでにんじんを柔らかくしました。これを女性器に挿入することで、セックスに似た感触を得ることができたのです。
また、柔らかくしたにんじんを蒸して温かくすることもありました。これにより、女性は人肌に近いぬくもりを楽しむことができました。
張形は「大奥(おおおく)」でよく使われていた
張形がよく使われたのが「大奥(おおおく)」という場所です。大奥は「将軍に仕える女性が集まって生活をしていた部屋」のことを指します。大奥の名称は、江戸城の奥にあったことに由来しています。
大奥の女性は、将軍のセックスの相手をすることがありました。ただ、大奥には500人以上の女性がいて、その中で将軍とセックスをできるのは一部の女性に限られました。それ以外の女性は将軍だけでなく、ほかの男性と性行為をすることもできませんでした。そのため大奥の女性たちは、性欲が溜まっていたのです。
溜まった性欲を発散するために、女性たちは張形を使うようになりました。大奥で将軍に仕える女性を「女中(じょちゅう)」と呼びます。女中は先輩から、張形の使い方を教わることがありました。先輩は張形を使い慣れており、「より実際のセックスに近い刺激が得られる使い方」を熟知していました。
また、女中同士で張形を使い、お互いの女性器を刺激し合う遊びも行われていました。
張形による初体験では「処女は失われない」とされた
大奥は「男子禁制の部屋」となっていました。女性の中には男性経験がないまま大奥に入る人がいました。こうした女性は女性器への挿入を張形によって初体験することがありました。
大奥の女性は「世の中にはたくさんの男性がいるのに、張形で初体験をするのはもったいない」と嘆いていました。しかし張形を女性器に挿入して初体験をするのは、「本物の男性器ではないため初体験ではない」と考えられることがありました。
大奥の女性は張形を日常的に使っていました。張形は実際の男性器よりもサイズが大きいものが多いため、女性の中には「男性とセックスするようになったときに、満足できるだろうか」と心配することがありました。
また、大奥の女性は張形を「小間物屋(こまものや)」という商人から購入していました。一般の人々は張形を扱う小間物屋が江戸城に出入りするのを見て、「大奥の女性は張形を使うのだ」と気付いていました。
江戸時代の女性も現代と同じく不倫をすることがあった
このように、江戸時代の女性は張形やにんじんを使ってオナニーをしていました。現代ではディルドを誰でも購入することができますが、これらオナニーで使用された当時の道具は、江戸時代では高級品だったのです。
オナニーをするのは男性でも女性でも同じですが、同じように江戸時代でも不倫が行われていました。江戸時代にどのように不倫が行われていたのかは、興味深いといえます。
江戸時代の女性は、隣に住んでいる人と不倫をすることがあった
江戸時代の人々が住んでいたのは、木造の家でした。多くの人が「長屋(ながや)」と呼ばれる細長い家に住んでいました。長屋の中は木の壁で仕切られており、いくつかの部屋に分かれていました。
そして、それぞれの部屋には現代のアパートやマンションのように、別々の家族や独身の人が住んでいました。
江戸時代の建築技術は現代よりも質が低く、特に物音を通しやすくなっていました。そのため、夫婦がセックスをしていると、隣の部屋に性行為の物音や色っぽい声が聞こえることがありました。
こうしたセックス中の女性の声を聞いて、隣の部屋の男性は隣に住んでいる女性に興味を持つことがありました。そして男性は外で隣の部屋の女性とすれ違ったときに彼女のあえぎ声を思い出し、興奮することがありました。
朝に旦那が仕事へ出勤し、子供が寺子屋(てらこや)と呼ばれる学校へ行くのを見送ると妻は空き時間となりました。江戸時代は娯楽が少なく、家には定期的に売り子がやってくるため、妻は買い物に行く必要もありませんでした。そのため、妻は散歩がてら外に出ることがありました。
外出のときには隣に住む男性と会うことがあり、そこから不倫に発展することがあったのです。
不倫中のセックスは人の少ない場所で行われた
不倫中のセックスは、妻の部屋や男性が住んでいる部屋で行われることはありませんでした。性行為中の声が周囲に聞こえてしまい、不倫が知られてしまう可能性があったためです。
そのため不倫をした二人は、お寺の裏や人の少ない場所でセックスを行いました。また、性行為は昼間に行われることがほとんどでした。夜は街の警備をする役人が見回っており、セックスをしているとすぐに見つかってしまうためでした。
江戸時代の不倫の罪は重かった
ただ、江戸時代の不倫の罪は非常に重いものでした。1655年に江戸幕府が公布した「江戸市中法度(えどしちゅうはっと)」と呼ばれる法令では、「夫は不倫をした妻を殺しても良い」とされていました。つまり妻は軽い気持ちで不倫をすると、旦那に殺されてしまう可能性があったのです。
しかし旦那も妻に情が湧くため、よほど旦那の怒りが高まらない限り、旦那が妻を殺害することはありませんでした。
不倫のトラブルは話し合いによって解決されるのが一般的で、旦那は妻から示談金(じだんきん:争いを解決するための費用)をもらうことがありました。示談金は七両(ななりょう)ほどが相場で、現代での70万円に相当する金額でした。
このように妻が実際に殺害されるケースはあまりなかったため、江戸の中期には妻が不倫をするケースが相次ぎました。
なお、こうした時代の流れの中で、「不倫をした女性が殺されてしまうのは罪として重すぎる」と考えられるようになりました。
この結果、江戸市中法度は内容が改正されました。不倫をしたら妻を殺害しても良いというルールは廃止され、かわりに「妻の不倫が発覚したら、旦那は妻を江戸の有名な遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)である吉原に売り渡すことができる」とされました。
ただ、旦那は妻に不倫されることで「心置きなく離婚できる」と考えることがありました。江戸時代は前述のように男女の性行為が周囲に筒抜けだったため、男性もほかの女性と不倫をすることがあったのです。
このように、江戸時代にも不倫は行われていました。不倫をした妻は殺害される可能性があり、非常に重い罪とされていました。江戸時代は性に対して寛容な時代でしたが、女性の不倫に対しては非常に厳しかったのです。
女性は江戸時代、避妊のために命を落とすことがあった
ただ、不倫をするものの避妊方法は確立されていませんでした。江戸時代と現代で大きく異なるのが「効果の高い避妊法がないこと」です。現在はピルなどの避妊薬やコンドームが市販されています。
一方、江戸時代にはこうしたものはありませんでした。また、現代のような妊娠や排卵日についての知識が女性にはありませんでした。
望まれない妊娠は現代より多かった
江戸時代の男女はコンドームや避妊薬なしでセックスをしていたため、予期せぬ妊娠が多くありました。女性はこの場合、ひそかに中絶をしていました。
江戸の街の裏通りには共同便所がありました。お手洗いの壁には「月水早流 代 三百七十二文(げっすいはやながし だい さんびゃくななじゅうにもん)」「朔日丸 代 百文(ついたちがん だい ひゃくもん)」という引札(ひきふだ:広告チラシのこと)が貼られていました。
これらはそれぞれ、「避妊薬の名称とその値段」を示していました。月水早流は黒い色をした粉末状の薬でした。月水早流を塩と合わせてお湯に溶いて飲みます。「1日に3回服用すると避妊ができる」とされていました。朔日丸は「毎月1日に服用すると避妊ができる」とされていました。
このような避妊薬は存在したものの、効果については信頼性がありませんでした。
また、ほかにも避妊薬は出回っていましたが、薬によっては「水銀」が使われているものがありました。江戸時代の女性は水銀が含まれている薬を服用することで体調を崩したり、命を落としたりしてしまうことさえありました。
女性は放尿をして、女性器を洗うことで避妊をした
女性は妊娠を避ける方法として、セックス後に放尿(小便をすること)を行いました。また、性行為後にたらいにぬるま湯を入れ、そのお湯で女性器を洗い流しました。
江戸時代の風俗店で働く遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)は、お手洗いに行くふりをして風呂場で上記の事後処理を行っていました。
風俗店を利用する男性客の中には、女性が行う事後処理について知っている人がいました。そのため、セックスを終えたあと「(女性器を)よく洗ってこいよ」とからかうことがありました。
さらに、女性によっては女性器を洗ったあと、へその下に灸を据えることがありました。灸も避妊に効果があるとされていました。しかし、これも本当に効果があるわけではない、不完全な避妊方法でした
中絶専門の医者「中条流(ちゅうじょうりゅう)」
江戸時代には中絶手術を専門的に行う「中条流(ちゅうじょうりゅう)」という医者がいました。中条流の中絶手術の主な手法は、「女性器から薬品を押し込んで流産させる」というものでした。現代からすると非常に手荒な方法で、避妊薬と同じく女性が命を落とす可能性がありました。
しかし、予期せぬ妊娠をしてしまい、慌てて中条流のもとを訪れる女性は後を絶ちませんでした。
現代に残されている江戸時代の春本(しゅんぽん:男女のセックスについて書かれた本。いわゆるエロ本)である「春情指人形(しゅんじょうゆびにんぎょう)」という作品では、裕福な家の娘が妊娠する様子が描かれています。そして両親が中条流の医者を頼り、中絶手術を依頼するストーリーとなっています。
江戸では一般女性のほかに、遊女も妊娠に悩んでいました。遊女は日常的に多くの男性客と性行為をしていたため、想定外の妊娠が多くあったのです。
女性の中絶手術を引き受けることで、中条流は大きな利益を得ていました。
当時の中条流の料金は「一両三分(いちりょうさんぶ)」でした。これは女性の入院、入院中の女性に対する身の回りの世話、手術、アフターケアを含めた料金です。
女性は体調が回復すればこれを支払いましたが、現代でいう17万5千円に相当しました。
このように、江戸時代の女性は現代とは異なる方法で避妊をしていました。しかし、その多くが不完全な方法で、ときには女性が命を落としてしまうことさえあったのです。
かつて江戸にいた女性の下着と生理の処理
妊娠と深い関わりのあるものとして生理があります。それでは、江戸の女性はどのように生理を処理していたいのでしょうか。
江戸時代の女性にも、当然ながら現代と同じように生理がありました。現代ではナプキンやタンポンを使うことで、生理の日でも安心して過ごすことができます。しかし江戸時代には、こうした商品はもちろんありませんでした。しかし、生理用品にあたるものは当時からありました。
女性が身に付けていた下着「湯文字(ゆもじ)」
江戸時代の女性が身に付けていたのは「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる布です。四角い形をしており、木綿素材でできていました。江戸時代の女性は、これをスカートのように腰に巻き付けて着用していました。
湯文字の起源は平安時代(794~1185年)までさかのぼります。平安時代の天皇が住んでいた宮廷(きゅうてい)には、御湯殿(おゆどの)と呼ばれる浴室がありました。御湯殿では女官(にょかん:宮廷で働く女性)が天皇の世話をしましたが、女官は「湯巻(ゆまき)」という湯文字の前身(ぜんしん:以前の形にあたるもの)を身につけていました。
平安時代の湯巻は、白いスカートのような形をしていました。江戸時代に入って湯文字になると、色は白だけでなく、薄い藍色や緋色(ひいろ:明るい赤色)も用いられました。
また、江戸では一般の女性は白か薄い藍色の湯文字を使っていました。一方、江戸の有名な遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)であった吉原の遊女は緋色の湯文字を身に付けていました。
江戸の街中では、湯文字を身につけるのが一般的でした。一方、農村部では多くの女性が湯文字を身につけていませんでした。農村部では周囲に人が少なく、女性は生理を気にせず血液を垂れ流しにすることがあったのです。
湯文字はスカートのような形をしていたため、風が吹いているとめくれて陰部が見えてしまうことがありました。そのため湯文字におもりを入れて、めくれないようにしていることがありました。
ナプキン代わりに使われた布「お馬(おうま)」
生理のときにナプキンの代わりに使われたのは、ふんどしのような形をした布でした。正面から見ると馬の顔のように見えたことから、「お馬(おうま)」と呼ばれることがありました。生理になるとお馬は血液で汚れましたが、女性は洗って繰り返し使っていました。
また、お馬を単体で使うのではなく、再生紙や薄い布を陰部に当てて、その上からお馬を巻いていました。使用感は現代と比べて快適ではなかったと考えられますが、当時はこれが常識でした。
農村部にはお馬を身につけていない女性がたくさんいましたが、一部の使っている女性は再生紙のかわりのものを使い、お馬を身に付けていました。とくに綿は「柔らかいため陰部に当てやすい」とされていました。また、農村部の女性は綿を膣に詰め込んで使うこともありました。
さらに、江戸時代にもタンポン(膣に入れて血液を吸収する生理用品)にあたるものがありました。海綿(かいめん:海で採取できるスポンジ状の素材)は吸水性が良く、洗って再利用できるため、これにひもを付けて膣に入れていました。
江戸時代の生理は「穢れ(けがれ)」とされていた
江戸時代の生理は男性から「避けるべきもの」として考えられていました。
生理は「血の穢れ(ちのけがれ)」といわれていました。そして、「男性が生理中の女性とセックスをするのは厳禁。もしセックスをすれば、女性の体内に潜むヘビに男性器を噛まれてしまう」という迷信さえ広まっていました。迷信を信じた男性は、生理中の女性との性行為を控えていました。
こうした迷信が広まったのは「生理中の女性を守るため」という説が有力です。江戸時代の当時は生理中にセックスをすると細菌が繁殖しやすく、女性にとって不衛生でした。そのため、「生理中の女性と男性がセックスをしたがらないよう、人々が迷信を広めた」とされています。
このように、江戸時代の女性は湯文字という下着を身に着けていました。そして、ナプキンやタンポンがなかったため、現代とは違ったお馬や再生紙、海綿を使って生理に対処していました。こうした風習から、江戸時代の女性も生理に悩まされていたことが分かります。