神奈川県は現在、川崎市にある「堀之内」や「南町」などの風俗街が人気となっています。現在はなくなってしまったものの、神奈川県でかつて人気があった風俗街に、横須賀市の「安浦」という場所があります。安浦では、「ちょんの間」にあたる風俗店が多数あることで人気となっていました。
ここでは、安浦の歴史について紹介します。
大正時代から人気となった風俗街
安浦の風俗街は、大正時代(1912~1926年)に始まりました。安浦の歓楽街は「京浜安浦駅」という駅から徒歩10分のところにありました。現在は駅名が改称されており、「県立大学駅」となっています。
大正時代の前の時代である明治時代(1868~1912年)に、横須賀市に旧日本海軍の施設が設置されました。この施設によって横須賀市は敷地面積が手狭になったことから、埋立地を作りました。こうしてできた埋立地は、安浦と名付けられました。
安浦の名称は、埋め立て工事を行った業者が「安田保善社」という会社であったことと、港を意味する文字である「浦」を合わせて作られました。
安浦はもともと、住宅地の敷地確保のために作られました。当初の予定通り、安浦には住宅街が建設されましたが、合わせて歓楽街も設置されるようになりました。
当時の横須賀市には旧日本海軍の兵士や関係者をターゲットとして、すでに「柏木田(かしわぎだ)」という政府公認の風俗街が存在していました。ただ、柏木田の風俗店は料金が高めとなっていて、一般の人たちには利用しにくい店が多くありました。
安浦の歓楽街には柏木田の店に対抗する店が多く、低料金で女性と性行為を行うことができました。横須賀は漁が盛んだったため、安浦の風俗店は漁師や船乗りなどから人気となりました。
当時の安浦の風俗店の特徴
当時の安浦の風俗店は、いわゆる「ちょんの間」にあたる店がたくさんありました。ちょんの間は、4畳(6.61m2)ほどの狭い部屋で女性とセックスをすることができるサービスです。時間は15~30分ほどと、短めの店が多いです。
ただ、サービス内容はちょんの間に近いものでしたが、安浦の風俗店はちょんの間ではなく、「旅館やカフェー(特殊喫茶)、バー」として営業されていました。店を利用する男性客も、安浦の風俗店をちょんの間とは考えていませんでした。
旅館・カフェー・バーは、表向きは宿泊施設や飲食店として営業されていました。しかし実際は、店の2階や奥では女性とセックスを行うことができました。
前述の柏木田は政府公認の遊郭として売春が認められていました。しかし安浦での風俗店営業は違法であったため、このような営業形態が取られたのです。
これらの店でのコースは、大きく2種類に分かれていました。コースはそれぞれ「遊び」と「時間」という呼び方がされており、昭和時代(1926~1989年)の終わりの頃の相場で「遊び」は15分で5,000円、「時間」は30分で10,000円の料金となっていました。
遊びと時間の呼び方の由来は、遊びは「軽く遊ぶ程度」、時間は「時間をかけて楽しむ」ということに由来していると考えられています。
全国各地の風俗街の中には、有名な街として日本各地から男性客がやってくる街があります。しかし安浦は、「地域の人たち」をターゲットにしていました。船乗りや漁師が夜中まで遊ぶ街として、安浦は人気となりました。
また、安浦にはパンパンという「街頭に立って客引きをする女性」がたくさんいました。安浦には当時、日本人だけでなくアメリカ軍の兵士も多くいました。こうしたアメリカ兵にパンパンは声をかけ、セックスに誘っていました。
パンパンは「米軍兵士を相手とする街娼(がいしょう:街頭に立って客引する風俗嬢)」のことを指しました。しかし安浦のパンパンは日本人にも声をかけることがあったため、アメリカ兵士だけに声をかけるパンパンを「洋パン」と呼ぶことがありました。
摘発により現在は住宅街に
安浦は昭和時代にとても人気となりました。しかし昭和時代の後半に入ると、安浦の風俗店は徐々に減少するようになりました。
安浦の店の減少のきっかけになったのが、1958年(昭和33年)に施行された「売春防止法」です。この法律によって、売春行為は完全に違法となりました。
こうして本番サービスを提供していた安浦の風俗店は、摘発の対象となりました。1950年代には約60店舗があったのが、2000年に入るころには数店が残されるのみとなりました。そして、2010年ごろにはほぼ全滅状態になってしまったのです。
現在、安浦の風俗街があった場所は、当時の建物が多く残された住宅街となっています。京浜安浦駅は2004年に県立大学駅に改称され、周辺地域の風紀は昭和の時代と比べて改善されました。
このように安浦は、かつて本番行為(セックス)を行える風俗店が多数あった街として高い人気を誇りました。しかし現在はほぼ消滅し、当時の雰囲気が感じられる建物が残るのみとなっています。
現在も当時の面影が残る安浦
現在の安浦に風俗店はありませんが、その面影はいまも残っています。特殊飲食店として営業されていたカフェーの建物があるのです。カフェーは安浦町3丁目にありました。県立大学駅を降り、大きめの道路を渡った先にかつての店舗が残されています。
駅を降りた直後の風景が以下になります。特に変わった様子はなく、人の数もまばらです。この通りをずっとまっすぐ行けば、大きめの道路に出るのでそこを目指します。
そうすると、ほとんどのシャッターが閉まったさびれた商店街が表れます。カフェーがたくさんあったころ、居酒屋を含め多くの店が繁盛していたものの、現在はそうした客はいません。
さて、ここから路地裏へ一歩足を踏み入れれば、そこはかつてのカフェー街です。普通の住宅が立ち並ぶ中、明らかに様子の異なる建物があります。それらはかつての特殊喫茶であり、中ではセックスのサービスが提供されていました。
例えば、以下の建物は明らかに普通の住宅ではないことが分かります。モザイク調であったりタイル張りであったり、こうした建物はオシャレな建築物としてもてはやされていました。
また、下にある写真は現在では閉店してしまった床屋さんです。緑色のタイルが色鮮やかであり、取っ手が斜めになっているドアはカフェー建築の建物で多く見られる構造です。
建物によっては、会社が入居することで活用されていることがあります。多くの建物は誰にも利用されず、閉鎖されています。それに比べると、建物の形を保ったまま再利用されていることは、建物を現在にも残すことにつながります。
ちなみに、居酒屋・寿司屋として経営している以下の建物もカフェー調のものです。
建物の横に移動すると、鮮やかな青色のタイル張りがあります。これが、当時オシャレだとされていました。現在でも、青色の鮮やかな色は人を魅了します。
かつて、この地域には他にも群青色の非常に美しいモザイクタイルの建物が残っていたとされています。しかし、現在では取り壊されてしまい、当時の面影が消えてしまっている建物もあります。
なお、普通の道路を歩いてもいいですが、以下のように所どころで舗装がされていない細い路地があります。かつて、この路地を歩いてさまざまな男性が行き来していました。
タイル張りのカフェー建築としては、以下の建物も壮大です。タイル張りの壁には、かつてはネオンの看板が掛けられていたのだと思われます。現在残っている中では、この建物が当時を象徴する一番の建築物だといえます。
カフェー調の特色ある建物を主に載せましたが、実際に安浦へ足を運ぶとそのほとんどが住宅だということに気がつきます。そうした住宅の中に、かつての赤線地域だった名残として当時の建物が残されているのです。
現在の安浦では、風俗遊びをすることはできません。ただ、その街を歩けば「かつてちょんの間として栄えた歴史」を感じ取ることができます。