日本の風俗

日本最古の遊郭といわれる奈良県「木辻」

日本各地にある遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)の中でも、「最古の遊郭」として知られているのが、もともと奈良県の奈良市に存在した「木辻遊郭(きつじゆうかく)」です。

東京の有名な遊郭である「吉原」や京都の遊郭「島原」は、江戸時代(1603~1868年)からその歴史が始まりました。これに対して木辻遊郭は奈良時代(710~794年)から歴史があり、日本最古の遊郭といわれる理由となっています。

ここでは、奈良県の木辻について紹介します。

起源は奈良時代、江戸時代に本格的に栄えた遊郭

木辻遊郭の前身(ぜんしん:前の形態)となる街は、奈良時代のころにすでに存在していました。

718年に「元興寺(がんごうじ)」という寺院が現在の奈良市にあたる奈良町に建設されることになりました。元興寺は「南都七大寺(なんとしちだいじ)」と呼ばれる7つある寺院のうちのひとつで、当時は重要な存在のお寺でした。

元興寺は大きな寺院であったため、建設するためには人手が必要でした。元興寺建設のために多くの職人や作業員が集まりましたが、作業は大変でした。そのため政府は男性労働者を元興寺の建設に従事させやすくするため、「女性と性行為を行える施設」を周辺地域に設置しました。これが木辻遊郭の起源となっています。

また、当時に起こったもうひとつの大きな出来事が「平城京遷都(都を平城京へ移すこと)」です。こちらは元興寺が建設される少し前の710年に行われました。平城京は奈良時代の日本の首都でした。現在の奈良県橿原市にあたる「藤原京」という場所にありましたが、710年に奈良町に移されたのです。

平城京の遷都により奈良町は大きく繁栄するようになり、元興寺の建設によってさらに人が増えました。そのため、風俗施設が置かれたのです。

江戸時代に「木辻遊郭」が開業した

こうして奈良時代から始まった奈良町の風俗街ですが、江戸時代に入るまでどのような街だったかについては資料が残っていません。江戸時代になると、当時の将軍であった徳川家光が正式に遊郭の営業許可を出し、「木辻遊郭」として開業されました。

1657年、東京の遊郭「吉原」は「周辺地域に対して風紀上の面で悪影響がある」とされ、移転を命じられました。移転後は新吉原として営業されました。木辻遊郭が始まったのは、新吉原の営業開始と同じ1657年で、吉原の移転のタイミングで開業されました。

江戸時代の奈良は、日本の中でも非常に有名な観光地となっていました。毎日のように多くの人が訪れており、そのにぎわいから当時の「眠らない街」といわれるほどでした。こうした状況から木辻遊郭も大盛況となり、風俗店は繁盛しました。

現在、木辻遊郭はなくなっていますが、当時の建物は数多く残されています。木造の歴史を感じさせる建物がたくさん建ち並んでおり、状態が良い建物では、銭湯や八百屋などが営業されています。木辻遊郭周辺の建物では格子を取り入れたデザインの建物が多くあり、「木辻格子」と呼ばれました。

ほかの地域では、かつての風俗街の建物はあまり残っていないことが多いです。しかし木辻遊郭跡には当時の面影を残す建物が多く残っており、江戸時代の遊郭の雰囲気を感じることができます。

明治時代から徐々に衰退

江戸時代までたくさんの人でにぎわった木辻遊郭でしたが、明治時代(1868~1912年)に入ると状況が変わりました。そのきっかけとなったのが1872年に公布された「娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)」という法律でした。

娼妓とは風俗嬢のことを指します。娼妓解放令は、「風俗嬢の人権を尊重し、借金から無理な労働を強いられていた風俗嬢を解放するための法令」でした。

人身売買を禁止するための法令でしたが、実際のところは「女性が自分の意思で風俗嬢の仕事を続ける場合は、たとえその行為が違法であっても風俗行為が認められる」というものでした。

木辻遊郭は政府から認められて営業されていた風俗街でした。しかし娼妓解放令によって、それまで違法な営業によって取り締まりを受けていた風俗嬢が営業を許されるようになりました。木辻遊郭は「政府公認の遊郭」という、ほかの風俗街にないメリットを失ったのです。

そして木辻遊郭は、徐々に人気が衰えるようになりました。1958年(昭和33年)には、風俗店での売春を禁止する「売春防止法」が施行されました。この法律によって木辻遊郭はさらに打撃を受けることになり、このころに木辻遊郭は消滅してしまいました。

現在は前述のように、当時の建物はそのまま残されていますが、新しく風俗店が営業されることはなく、いまに至っています。奈良時代からの木辻遊郭の歴史は、こうして途絶えてしまったのです。

現在の木辻遊郭は、「当時の風俗街の雰囲気を感じてみたい」という観光客に人気となっています。また、木辻遊郭の入り口であった「大門(おおもん)」という門は、スーパーの看板として使われています。

このように木辻遊郭は日本最古の遊郭としての歴史を持ちながらも、現在はなくなってしまいました。しかし木辻遊郭跡には当時の建物がたくさん残っており、昔の雰囲気を感じることができます。

現在の木辻遊郭

それでは、奈良県木辻にある遊郭跡はどのようになっているのでしょうか。

木辻はアクセスが悪いです。奈良駅から徒歩で歩くとなると、15~20分ほどかかります。最寄り駅である京終駅(きょうばてえき)からも10分ほど歩く必要があります。

木辻へ行くときは奈良駅から出向いてもいいし、京終駅から出向いても問題ありません。もちろん、世界遺産である元興寺に立ち寄った後に木辻へ出向くという方法もあります。

前述の通り、木辻遊郭の入り口には大門がありました。これが、現在では以下のように活用されています。

この大門をくぐった先が木辻遊郭のメインストリートです。そこには、遊郭として運営されていた施設が現在でも残っています。

なお、大門の手前には「やすらぎ書店」という本屋があります。ただ、この本屋は営業をしていません。店が完全に閉まっています。しかし、壁にはアイドルの写真がギッシリと貼り巡らされています。

なぜ、木辻遊郭にこのような書店が存在するのか不明です。また、誰がアイドルの写真を貼っているのかもわかりません。ただ、木辻遊郭の大門にたどり着くと、このような異色の風景を目にすることができます。

大門を抜けると、風俗施設として使われていたのであろう建物が並んでいます。木辻にある建物は、新しい現代風の建物に変わっていることは多いものの、古い建物も残っています。

風俗街といえば銭湯です。なぜか、風俗街には高確率で銭湯が存在します。木辻遊郭にも銭湯があり、風俗施設とは異なり銭湯はいまでも営業しています。

周辺を歩くと、昭和時代の看板を残した建物を発見しました。建物は比較的キレイですが、看板は昔のまま残されています。

木辻遊郭には、旅館が存在します。昔の遊郭から転業し、現在では旅館として運営されているのです。

「静観荘」という名前の旅館ですが、正真正銘の元遊郭です。素泊まりのみですが、宿泊料金が比較的安いことから外国人客に人気です。元遊郭の施設を堪能したい場合、早めに予約しておけば宿泊できます。

木辻遊郭から元興寺へと続く道については、古い建物が数多く残されていて風情を感じることができます。良い町並みであるため、私が訪れたときも外国人を含め何人もの人がこの通りを行き来していました。

人がいれば、ビジネスが成り立ちます。そのため、よくある「閑散とした風俗跡」という雰囲気はなく、街には活気がありました。古い建物を活かし、さまざまな店が観光客を相手に営業をしています。

街の風景に合うように建物を建てる必要があります。そのためか、郵便局もレトロでおしゃれな外観でした。

昔ながらの建築物だけでなく、中には京都のような庭のある建物もあります。食事できる施設もあるため、木辻遊郭を散策した後はこうした場所で食べるのも良いでしょう。

木辻遊郭から元興寺へ続く道では、こうした風景がずっと続きます。木辻遊郭を訪れるとき、こうした古都の街並みを同時に楽しむといいです。

日本最古の遊郭とはいわれているものの、遊郭跡として残っている施設は少ないです。また、木辻遊郭の周辺では古い建物が取り壊されて現代風の趣のない家に変わってしまっているケースも多いです。

ただ、かつての遊郭で宿泊できたり、元興寺へ行く道では古い町並みがずっと続いていたりするなど、景色を楽しむことができます。女性と夜遊びすることはできませんが、かつて遊郭で栄えていた町を体験したい場合は訪れてみてください。

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