日本の風俗

歴史ある京都のかつての風俗街「島原遊郭」

日本各地の風俗街の中でも江戸時代(1603~1868年)から歴史があり、特に有名な場所として東京の「吉原」があります。これに対して関西地方には、吉原と並んで評されることが多かった京都の「島原」があります。島原の歴史は吉原よりも前の安土桃山時代(1573~1603年)から始まりました。

現在、京都の島原に風俗施設はありません。ただ、昔の遊郭(風俗店)を含め古い建物がいまでも残っています。そうしたことを含め、ここでは京都の島原の歴史について紹介します。

島原は風俗街の移転によってでき上がった

島原は1589年にその前身(ぜんしん:前の形態にあたるもの)となる街が設立されました。

当時の将軍であった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が馬に乗る際、原三郎左衛門(げんざぶろうさえもん)という人物が付き添っていました。原三郎左衛門は「馬の口取り」という役目をしていて、馬の口をとって秀吉が馬に乗っている間、暴れないようにしていました。

桃山時代の1589年、原三郎左衛門は秀吉の許可を取り、現在の二条駅の周辺に「二条柳町(にじょうやなぎまち)」という風俗街を設立しました。江戸時代になると二条柳町は現在の京都市下京区の六条通り周辺に移転され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち)」となりました。

ここから1641年に、六条三筋町は再度移転が命じられました。そして、新たな街は現在の京都市下京区にある丹波口駅の周辺に設置されました。当時は朱雀野(すざくの)という場所の付近でした。六条三筋町は1641年以降、「島原」と呼ばれるようになりました。

このように、それまであった風俗街の移転が島原の始まりでした。

2度の移転の際には風俗店の経営者や働いていた風俗嬢が対応に追われ、大きな騒ぎとなりました。島原の名称の由来は、「移転騒動の様子が江戸時代の初期に長崎で起きた大きな一揆(いっき:農民の反乱)である島原の乱に似ていたため」という説があります。

この後は島原の移転が行われることはなく、長期にわたりその歴史を残すことになりました。

設立初期の島原の様子

島原の風俗街は、周囲を壁や堀で囲まれた形となっていました。また、出入り口として「大門(おおもん)」と呼ばれる大きな門がありました。

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江戸時代の中心的な都市は江戸でした。江戸の有名な遊郭であった吉原も島原と同じく、周囲を塀に囲まれ、入り口に大門が設けられていました。当時の遊郭には共通する設計があったと考えられます。

島原は「政府公認の遊郭」として大きく発展することになりました。

また、ほかの地域では風俗街のことを「遊郭」と呼びますが、島原は「花街(かがい)」と呼ぶことが多いです。これは、島原が風俗店だけがある街ではなかったためです。

島原では歌舞伎(かぶき:江戸時代に人気となり、完成された民衆演劇)や音曲(おんぎょく:音楽のこと)が盛んに行われました。

また、和歌や俳句なども盛んでした。男女問わず多くの人たちが、島原の様子や風景を褒めた和歌や俳句を詠んでいました。

このように島原は風俗店だけでなく演劇や和歌、俳句を楽しむことができたため、多くの人でにぎわいました。そして、男性だけでなく女性からも親しまれる街となり、自由な雰囲気が感じられる街となっていました。

江戸の吉原では、風俗店で働いていた女性は吉原の外に出るのに許可が必要でした。事前に町奉行所(まちぶぎょうしょ)という役所に申請を行い、大門で女性の身元の確認が行われた後で外出しました。そのため吉原の風俗嬢は、あまり外に出る機会がありませんでした。

これに対して島原は、風俗店で働く女性であっても自由に島原を出入りすることができました。手形(てがた)という証明になるものは必要でしたが、吉原よりも外出のルールは緩いものでした。

また、当時はさまざまな人が島原を訪れていました。例として、明治維新の中心的存在となった西郷隆盛(さいごうたかもり)や、京都で警察活動を行っていた新撰組(しんせんぐみ)も訪れていました。

島原での花魁道中

大規模な火災によって、島原への客足が遠のいた

江戸時代の後期にあたる1851年(嘉永4年)、島原で大きな火事がありました。この火事によって、島原にあった6つの町のうち、揚屋町(あげやちょう)という町以外はほとんどが焼失してしまいました。島原はこの火事で大きな損害を受けてしまったのです。

火事のあとの島原では復興が行われたものの、火事によってほかの地域に移った人々の多くは、島原に戻ってきませんでした。

明治時代(1868~1912年)に入ると、「明治維新(めいじいしん)」と呼ばれる改革が行われました。このときに島原には歌舞練場(かぶれんじょう)という、歌舞伎や舞踊の練習の場が設けられました。歌舞伎が島原で再度人気となることを目的として建設されましたが、思うように客足は戻りませんでした。

こうして昭和の時代(1926~1989年)に入ると、島原には風俗店は残ったものの、以前のようなにぎわいはなくなりました。風俗店は営業が行われていましたが、1977年(昭和52年)に閉鎖され、島原の歴史は幕を閉じたのです。

現存している島原の花街

島原は京都の花街としてかつて大きく繁栄しましたが、現在は当時の建物を残すのみとなっています。火災で焼失しなかった揚屋町には、島原の過去の建物が残っており、当時の雰囲気を感じることができます。

それでは、どこに島原があるのかというと、京都駅からJR山陰本線で一駅の場所にある丹波口駅(たんばぐちえき)から向かうことができます。

丹波口駅で降りた後、5~10分ほど歩くと昔ながらの島原の街並みが目に飛び込んできます。

まず目につくのは、島原の北西にある大銀杏(おおいちょう)です。現在も存在する島原住吉神社の北端には、かつて大銀杏がありました。ただ、島原住吉神社は明治維新後に廃社となってしまいます。

ただ、その後の明治36年(1903年)に神社は復興します。しかし、このときは島原住吉神社の境内は以前のものよりも小さいものとなりました。そのため大銀杏だけが取り残される形となり、現在は樹齢300年以上の大木としてまつられています。

なお、かつては神社の一部であったため、大銀杏の隣には神社の跡が残されています。

道を入れば、そこにはかつての花街が広がっています。

島原では遊郭以外にもさまざまな施設があったため、必ずしも建物すべてが妓楼(ぎろう:風俗施設のこと)だとは限りません。用途は分かりませんが、当時の面影を残した風景が広がっています。

建物の多くは一般店舗として利用されています。風情ある建物であるため、たとえかつては風俗施設であったとしても問題なく活用できます。むしろ、歴史ある建物として多くの人に感動を与えます。

中には旅館として運営されている店舗もあります。この旅館はもともと、揚屋(あげや:昔の遊郭)として運営されていました。

揚屋とは、花魁などの遊女(風俗嬢)を呼んで遊ぶための施設です。男性客は揚屋へ出向き、そこへ遊女を呼んで夜遊びをしていたのです。こうした250年以上の建物をカフェや旅館として活用しているのです。

歴史ある島原に存在したかつての遊郭で宿泊することで当時の雰囲気を感じ取りたい場合、予約してみるといいです。

ちなみに、「かつての揚屋」を旅館として提供している以下の施設は看板を出していないため、パッと見た感じではカフェや旅館であることが分かりません。そのため、必ず事前に調べたうえで出向くといいです。

さて、京都の風俗店はお茶屋として運営されていました。日本では本番行為(セックス)を提供するのは違法であるため、大っぴらには女性とのセックスをサービスとして打ち出すことができません。

そこで、料亭やお茶屋という形式にしていました。お茶屋に男性客が入り、店のスタッフとして働いている女性が男性に対してお茶を出します。そうすると、二人は一瞬にして恋に落ち、その場でセックスに至ったという建て前にしているのです。

島原で遊女と遊ぶための手順と現存する建物

現在の島原では、女性と遊ぶことはできません。ただ、島原には昔の建物が残されており、どのようなシステムで遊女と遊んでいたのかを知ったうえで出向けば、より深く見学することができます。

輪違屋(わちがいや)

まず、島原には遊女がたくさん在籍している「置屋」がありました。遊女とはいってもそれぞれ位があり、島原では芸妓の最上位を太夫(たいふ)と呼びました。置屋には太夫をはじめ、花魁などさまざまな遊女がいたのです。

島原には輪違屋(わちがいや)という建物が残っており、これが当時の置屋です。風俗嬢はいませんが、現在もお茶屋として営業しています。置屋の中でも、輪違屋は太夫や芸妓を抱えていた由緒正しい建物であり、京都市の文化遺産に指定されています。

角屋(すみや)

輪違屋は置屋兼お茶屋として運営されていました。

それに対して、料亭として経営していたのが揚屋です。男性は揚屋へ出向き、置屋にいる太夫や芸妓を呼び寄せて遊んでいました。島原には由緒正しい揚屋の建物が残っており、この建物を角屋(すみや)といいます。江戸時代、新選組もここで宴を楽しんだとされています。

現在の角屋は国の重要文化財に指定され、中に入ることができます。

新鮮組が角屋で遊んでいたとき、一人が暴挙を働いて刀を抜きました。角屋にはそのときの刀の傷が残っています。角屋の入り口に「新撰組刀傷の角屋」という石碑があるのは、こうした理由があります。

島原大門(しまばらおおもん)

また、花街に入るための門として、島原の東入口に島原大門(しまばらおおもん)があります。堀と塀で囲み、入口を島原大門だけにすることで周囲を隔離し、遊女が簡単には外に出られないようにしていました。

島原大門については、昔の写真と同じ姿が現在でも残っています。

京都の島原で最も有名な場所といえば、この島原大門です。当時の姿そのままで残っている、非常に珍しい建築物です。

現在では風俗店は存在せず、京都の島原で夜遊びをすることはできません。ただ、昔の遊郭がそのままの形で残っています。多くは住宅街になっているものの、当時の面影のある建物もたくさんあります。

いまでは、島原は観光地の一つです。古い町並みが残る京都には、こうした昔の遊郭もあります。風俗遊びではなく、純粋に遊郭の歴史を味わいたい場合は島原を訪れてみてください。

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