日本の風俗

マットプレイの前身「泡踊り」発祥地・堀之内とソープ街・南町

神奈川県川崎市にある「堀之内」は、江戸時代(1603~1867年)から歴史のある風俗街です。堀之内はもともと「宿場(しゅくば)」という宿泊施設が数多く建ち並ぶ街でした。しかし、宿場で働く女性とセックスができるサービスが始まったことから風俗業が盛んになり、現在に至っています。

現在の堀之内にはソープランドがたくさんあります。昭和の時代(1926~1989年)には、ソープランドは「トルコ風呂」と呼ばれていました。

当時、トルコ風呂は日本の各地にありました。ただ、堀之内のトルコ風呂では「泡踊り」というプレイが考案されました。これは現在のソープランドで行われている人気のプレイ、「マットプレイ」の前身にあたるものです。

ここでは、堀之内のトルコ風呂の「泡踊り」、さらには川崎市に存在する風俗街の歴史まで紹介します。

泡踊りは「川崎城」という店が発祥

泡踊りでは、ビニール製のエアマットの上に男性客が横になります。そして、風俗嬢が石けんの泡を体に付けて、男性客の上を滑るようにして男性の体を洗います。

泡踊りの名称は「石けんの泡を付けた女性が踊るように見えること」に由来しています。現在のマットプレイでも、ビニール製のマットを使うのは昭和の時代と同じです。

ただ、ソープ嬢(ソープランドの風俗嬢)が使うのは石けんではなくローションとなっています。

堀之内で昭和44年(1969年)にオープンした「川崎城」というトルコ風呂で泡踊りが考案されました。川崎城は「高級感を売りにしたトルコ風呂」でした。

川崎城の店内は和風の内装で、女性は着物を着ていました。そのため、男性客は城にいるような雰囲気の中で女性との性行為を楽しむことができました。

当時、トルコ風呂の相場は1,000円ほどでした。これに対して川崎城の相場は1,500円で、高めの料金でした。

泡踊りを考案したのは25歳の女性

泡踊りを考案したのは川崎城で勤務していた「浜田」という女性でした。浜田は店の風俗嬢として勤務しており、プレイを考案した当時は25歳でした。

泡踊りが全国的に有名になったのは、浜田が取った行動がきっかけでした。浜田は泡踊りを自分独自のサービスとせず、周りの女性に次々に教えたのです。そのため川崎城に勤務する女性のほとんどが泡踊りの技術をマスターし、泡踊りは川崎城の名物となったのです。

川崎城を訪れた男性客は、泡踊りの「泡による気持ち良さ」と「女性との密着度合い」に魅了されました。泡踊りの噂はほかのトルコ風呂にも広がり、他店も真似するようになりました。そして泡踊りは、関東のトルコ風呂を席巻するプレイとなったのです。

しかし、川崎城以外の店が泡踊りを提供しても、川崎城は「泡踊りの元祖」として高い人気を誇りました。

考案者の浜田は自殺してしまった

川崎城の中でも特に男性客からの指名が多かった女性は、泡踊り考案者の浜田でした。当時の浜田は指名でいっぱいで、ピーク時における彼女の収入は、当時の金額で月収1,200万円ほどでした。

彼女の収入から、泡踊りがどれほど男性に感動をもたらしたのかを感じることができます。

1970年ごろのサラリーマンの年収は70~100万円でした。つまり、月収で6~8万円です。この金額と比べると、浜田の収入はとてつもないものであったことが分かります。

浜田は川崎城で1年間勤め、その間に1億4,000万円を稼ぎました。そして浜田は得た資金を元に、自分でトルコ風呂を経営し始めました。浜田は日本の各地に4軒のトルコ風呂をオープンさせて、経営者となったのです。

しかし昭和50年、浜田は自殺してしまいました。自殺の理由は「当時交際していた男性の浮気」でした。浜田は泡踊りを考案し、トルコ風呂経営も順調でした。当時の成功者といえる女性でしたが、その最後は悲しいものだったのです。

このように堀之内では、マットプレイの前身(ぜんしん:前の形態)である「泡踊り」が考案されました。

浜田による泡踊りのアイデアがなければ、現代のソープランドのサービスも大きく違っていた可能性があるのです。

川崎「堀之内」の現状と歴史

それでは、堀之内はどのような風俗街であり、どのような歴史があるのでしょうか。

前述の通り、川崎の堀之内に多くある風俗店が「ソープランド」です。ソープランドは女性とお風呂に入り、ビニール製のマットでの「マットプレイ」とベッドでの「ベッドプレイ」を楽しむことができます。

また、「店の女性と自由恋愛に発展した」という建前で、本番行為(セックス)を楽しむことができます。

ソープランドは法的にグレーなサービスであるため、ソープランドがある風俗街は限られています。堀之内はそのひとつといえます。2000年代初頭の時点で、堀之内には60軒以上のソープランドが存在しています。

また、もうひとつ多いサービスが「ちょんの間」です。男性客は4畳(6.61m2)ほどの狭い部屋で10~20分ほどの短時間で女性とプレイをします。プレイ内容はソープランドと同じく、セックスをすることができます。

ただ、2000年代に入ってからは、ちょんの間は徐々に減少傾向にあります。ちょんの間は韓国人や中国人などの外国人女性をスタッフとして雇っていました。しかし外国人女性を働かせることは違法であり、警察による摘発が行われています。

現在もちょんの間は残っていますが、年齢が高めのいわゆる「熟女」がプレイをしてくれるのが一般的です。

堀之内の路上には客引きの女性がいて、「遊ばない?」と声をかけてきます。以前は強引に勧誘する客引きが多くいましたが、現在は無理に誘う人はいなくなっています。そのため、昼でも夜でも安心して遊ぶことができます。

堀之内は江戸時代から多くの男性が訪れた

堀之内は江戸時代から歴史がある街です。当時は風俗街としてではなく、「宿場(しゅくば)」として栄えていました。宿場は旅の途中に休憩や宿泊をするための施設です。宿場では食事を提供してくれる女性スタッフがいました。

当時、堀之内にはたくさんの宿場が建ち並び、店は売上の競争をしていました。競争が激しくなる中で宿場がより魅力的なサービスとして始めたのが「店の女性スタッフとの性的サービス」でした。宿場の女性は風俗嬢となり、食事も提供していたことから「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれました。

江戸時代の堀之内には、約60人の飯盛女がいたとされています。ただ、これは文献上の数字です。実際に働いていた女性は100人を超えると考えられています。

こうした堀之内の人気は、明治時代(1868~1912年)にも受け継がれました。明治時代には明治維新(めいじいしん)という改革が行われましたが、宿場は「貸座敷(かしざしき)」と名称を変えて残りました。

現代の堀之内は、昭和時代の名残がある

現代の川崎はたくさんの商業施設やビルが建ち並び、近代的な雰囲気があります。しかし、堀之内周辺は落ち着いた雰囲気があり、歩いている人は少なめです。たくさんの人でにぎわっている川崎駅周辺とは異なる雰囲気となっています。

現在の堀之内は、新しく建てられた建物と昭和の時代(1926~1989年)に建てられた建物が共存しています。建設されてから30年は経っていると思われるような建物が至る所に残っており、当時の歴史を感じさせてくれます。外壁や看板が当時のまま残っている建物もあります。

このように、神奈川の堀之内は江戸時代から歴史のある風俗街として、現在も人気となっています。堀之内のソープ街(ソープランドが建ち並ぶ街)を歩くと、女性とのプレイを楽しめるだけでなく、当時の時代の雰囲気を感じることができるのです。

ソープ街・堀之内を歩いてみた

では、実際の堀之内はどのような雰囲気なのでしょうか。堀之内は川崎駅から徒歩数分で到着できます。そのため、アクセスは悪くありません。夕方に訪れたのですが、下校中の中学生に出くわしました。たぶん、ここが通学路なのだと思います。

すぐ隣の路地に入ればソープ街です。堀之内の学区に住んでいる小学生や中学生にとって、ソープ街はみなれた風景なのでしょう。

少し中へ入れば、住宅や飲み屋があった景色からソープランドが立ち並ぶエリアへと足を踏み入れることができます。以下の写真の奥に写っている店がソープランドです。

店の前にはボーイのお兄さんやおじさんが立っており、「どのような店を探していますか?」としきりに声をかけられました。ソープランドでの呼びかけ(キャッチ)は基本的に敷地内だけなので、追いかけられることはありません。そのため、興味がなければそのまま通り過ぎれば大丈夫です。

訪れたのは平日の夕方17:00くらいですが、風俗店に吸い込まれるように入っていく男性はかなりいました。駅からのアクセスもよく、風俗店としては非常に通いやすいのでしょう。

ソープ街としては東京・吉原が有名です。ただ、吉原は駅から遠く店の車に乗っての送迎が基本です。そういう意味では、都市部で駅から歩いて通える距離にある堀之内のソープランドは便利です。

なお、堀之内を歩いていると非常に美人の女性が2人組で歩いていました。彼女たちは私の前を通り過ぎた後、目の前のソープ店へと入っていきました。これから出勤なのか、何か用事があって外に出ていたのだと思います。

店の料金表を外から確認すると、「入浴料金:110分27,000円」とありました。ソープランドの場合、サービス料が別途取られ、入浴料と同額の値段が相場です。そのため、この店は110分総額54,000円(入浴料27,000円+サービス料27,000円)の高級ソープランドです。

確かに、あれだけかわいい子とセックスできるのであれば、それだけの値段になるのかもしれないと変に納得しました。ソープ店には多くの場合で値段が大きく書かれています。気になった場合、入店してみても問題ありません。

ソープ街を歩いていると、普通の街では見かけない風景を確認することができます。

例えばソープ店であれば、壁に料金だけでなく「コンパニオン募集」などのような求人を出していることがよくあります。ただ、ソープ街では自動販売機にも求人が出されています。

求人の内容は男性ボーイを求める内容でした。どうやら、「お金持ちの美熟女の簡単なお手伝い」をすることで高収入を得られる求人のようです。

堀之内のちょんの間

なお、堀之内に存在するのはソープランドだけではありません。かつて栄えていたちょんの間があります。現在は警察の撲滅作戦によって非常に数が少なくなっていますが、昭和の面影を残しながら現在もちょんの間の店が存在します。

堀之内は昭和期のとき、青線と呼ばれ「飲食店という形態を取りながら、実際は非合法で売春を行っている地域」でした。その名残として、堀之内には飲食店という名のちょんの間があります。

ちょんの間として営業されていたものの、現在は長い間営業していないであろう荒れ果てた店舗が存在します。その一方で、比較的新しそうな店もあります。ちなみに、ちょんの間はソープランドの隣であっても堂々とあります。

「料理飲食店」とはいっても、実際に行われるのは売春によるセックスです。この地域で「料理店」とあれば、ちょんの間だと考えればいいです。ただ、多くはカーテンが閉められた状態です。

なお、こうした店舗では料理店とあるにも関わらず、「当店は法律により、18歳未満の者の立ち入りを禁止します」とあります。

例えば以下の料理店であれば、玄関の右上に川崎市食品衛生協会からの「会員証」が貼られています。これはつまり、ここで料理店という名のちょんの間が営業されていたことを意味します。

それでは、実際にちょんの間が営業されているのかというと、少数ながらも行われています。以下の写真にある店舗では、実際に建物の中に女性が座っており、私に微笑みかけてきました。

すりガラスの真ん中にある透明ガラスから、女性の顔を見ることができます。ここでは6店ほどのちょんの間が営業していました。

美人でわりと私のタイプの女性がいれば、30代あたりのちょっと微妙な女性もいました。実際に顔を見て選ぶことができ、パネルマジックはないので、風俗店で騙されたくない人にとってはこうした店は最適です。

ただ、ソープランドのような手厚いサービスはなく、狭いスペースで女性とセックスし、射精するのがちょんの間です。セックスだけを楽しみたい場合にちょんの間は効果的です。

神奈川の人気ソープ街・川崎「南町」

神奈川県川崎市はソープランドが多数建ち並ぶ「ソープ街」として知られています。堀之内はここまで紹介した通りですが、川崎市には「南町」というソープ街もあります。ひとつの市内に2つの風俗街があるのは珍しく、日本では川崎市のみとなっています。

そこで、川崎市の「南町」のソープ街についても紹介します。なお、堀之内と南町の位置関係は以下のようになっています。

川崎駅から近いものの、静かな雰囲気

南町は川崎駅の東口から出て徒歩10分ほどの場所にあります。川崎駅周辺は開発が進んでおり、高層ビルが建ち並び、商業施設もたくさんあります。これに対して南町は非常に静かな雰囲気となっています。昼間に南町を歩いている男性客はまばらです。

堀之内と南町の規模の目安として、「ソープランドの数」が挙げられます。堀之内では2000年代初頭の時点で約60店舗があるのに対して、南町は20店舗となっています。そのため、堀之内のほうが大きな風俗街といえます。

堀之内と南町に共通する特徴として、前述の通りソープランドとちょんの間が共存している点があります。

南町のちょんの間は、近年は外国人が働いていたことによって摘発が相次いでいます。そのためソープランドに比べると店の数は少なくなっています。また、それまで営業されていた店の建物が取り壊され、新しいビルやマンションが建設されています。

堀之内の風俗店が移転して南町が設立された

堀之内と南町のうち、川崎に最初に設立されたのは堀之内です。

堀之内はもともと、先に述べた通り宿泊施設である「宿場(しゅくば)」が多い地域として栄えました。宿場の競争が激化する中で、「宿場の女性スタッフとの性的サービス」を提供する店が増えました。そして、風俗街として発展するようになりました。

堀之内の人気は明治時代(1868~1912年)に入っても続きました。しかし、明治35年(1902年)に「周辺地域に風紀上の悪影響がある」とされ、堀之内の風俗店は政府から移転を命じられました。こうして堀之内の風俗店が移転して形成されたのが南町です。

南町は政府公認の風俗街で、「川崎遊郭」と呼ばれました。また、「南町赤線」と呼ばれることもあります。赤線は1946年から1958年(売春防止法が施行された年)までに、政府公認で売春が行われた地域のことを指します。

当時の南町遊郭は非常ににぎわっていました。低料金で女性とのセックスを楽しむことができ、年間で約15万人の男性客が訪れていました。

昭和の時代の南町は、ヘルスやエステが多くあった

明治時代に設立された南町遊郭は、昭和の時代(1926~1989年)に入ると建ち並ぶ店が大きく変わりました。1958年に売春防止法が施行され、風俗店での売春行為(セックス)が禁止となりました。それまで本番サービスを提供していた「貸座敷(かしざしき)」と呼ばれる店は、全て廃業に追い込まれました。

そのためこのころから増え始めたのが、ヘルス(手コキやフェラチオを行ってくれるサービス)や性感エステ(男性器をマッサージして射精に導くサービス)などの「性的」サービスです。また、ストリップ劇場なども営業されました。

違法となった本番行為(セックス)ですが、昭和の南町では料理店や旅館などが増えました。表向きは一般的な店として営業されていたものの、実際は店内で売春が行われていました。

南町には現在も昭和のころの店が当時の外観を残して建ち並んでいます。南町の路地を歩いていると、昭和の時代の雰囲気を感じることができるのです。

このように南町は明治から昭和の時代にかけて特ににぎわっていました。現在は落ち着いた雰囲気になっているものの多くのソープランドがあり、男性客から人気となっています。

実際に南町を歩いてみた

それでは、南町はどのような雰囲気なのでしょうか。実際に南町を歩くと、住宅と風俗店が混在していることがわかります。堀之内のようにソープ店やちょんの間が密集しているというよりも、マンションや一般的な店舗と風俗店がごちゃ混ぜになった印象です。

例えば、以下の写真では風俗店の他にも郵便局、マンション、居酒屋、住宅などが混在していることが分かります。

南町にはソープランドが数多く点在しています。堀之内のようにソープランドが何店舗も密集しているというよりは、住宅やマンションの中の所どころに存在するという感じです。

また、南町では自動販売機でコンドームを購入できます。もし、コンドームが必要になったらここで買うことが可能です。

中には、かつてちょんの間(飲食店)として営業されていたものの、現在は廃業して長い間放置されているであろう建物もあります。

南町にはストリップもあります。建物に防音対策はしているのでしょうが、大音量で音楽を流しているためか、道路にも大きな音が漏れていました。周辺住民から騒音による大きな苦情を受けながらも、頑張っていまでも営業しているのだと思います。

このように、一般的な店舗やマンション、住宅など比較的落ち着いた雰囲気の中にソープランドなどの風俗店が点在している地域が南町です。堀之内のように風俗店が密集しているわけではないものの、多くの店が現在でも営業しています。

堀之内よりはひっそりとしていますが、かつての赤線地帯として昔の名残を残しつつ街が存在しています。低料金の店もあるため、堀之内だけでなく南町の風俗店もチェックしてみてください。

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