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現在でも、江戸時代(1603~1867年)の建物は全国各地にたくさん残っています。当時の建物は木造で、どっしりとした雰囲気の屋敷や蔵などが今でも残っています。その伝統的な雰囲気に魅力を感じる人は多いですが、実際に住むとなると「音の問題」がありました。

江戸時代の建物は音を通しやすく、さまざまな音が周りに筒抜けの状態だったのです。そして、セックス中の声や音も周りに聞こえていました。

ただ、農村では少し違った形でエッチが行われていました。

江戸時代の家屋はプライバシーがなかった

江戸時代の家屋は外観から重厚感がありますが、部屋を仕切っていたのは障子(しょうじ)やふすまでした。障子は木の枠に紙を貼ったものです。ふすまは木の枠の一面に紙や布を貼ったもので、障子より厚みがあります。

障子やふすまは部屋の仕切りとしての機能はありました。しかし防音効果は低く、隣の部屋の音は筒抜けの状態でした。もちろん鍵もついていないため、誰かが部屋に突然入ってくることがありました。

1878年に来日したイザベラ・バードというイギリス人女性は、宿屋に泊まりました。その時の経験を「日本紀行」という書籍に書いています。

イザベラ・バード氏は日本紀行で、「宿屋に泊まっていると、頻繁にふすまが音を立てずに開いて誰かが私をじろじろと見てきた。私の部屋の右の部屋には家族2組が宿泊し、左の部屋には5人の男性が泊まっていた。夜になって寝床に入ったが、プライバシーの面で非常に心配だった」と述べています。

このように、当時の建物は常に「周りから覗かれたり、音が漏れたりしてしまう問題」があったのです。

夫婦の性生活はこっそりと行われた

周囲に音が漏れてしまう環境の中で、夫婦でのセックスは「音を立てないようにひそかに行う」のが基本でした。女性はセックス中の気持ち良さから声を出したくなったとしても、我慢していました。声だけでなく、事後処理のために紙で拭き取る音さえ聞こえてしまう可能性がありました。

さらに、誰かがふすまを開けて「ちょっと着物を出したい」といって入ってくることもありました。そのため、常に夫婦は周りを気にしながら性生活を送っていました。

武家屋敷(ぶけやしき:武家が所有していた屋敷)や商人の屋敷は、まだ良いほうでした。障子やふすまで仕切られているのは同じでしたが、部屋数が多くなっていました。そのため、隣の部屋から急に人が入ってくることが少なかったのです。

夫婦は両親と別居することが多かった

夫婦はこのように周囲の人に気を遣って性行為をしていました。当時は二世代、三世代の家族が同居するのが一般的でした。しかし、プライバシーのなさから我慢しきれず、両親と別居する夫婦はたくさんいました。

しかし夫婦二人で生活しても、子供ができるとまた問題が発生しました。子供ができると「川の字」と呼ばれるように、夫婦の間に子供を挟んで寝るのが一般的でした。そして、子供が寝付くまでは夫婦はセックスをすることができないのです。

1802年に発刊された「葉男婦舞喜(はなふぶき)」という戯作(げさく:江戸の俗文学)には赤ちゃんを早く寝かしつけるように、嫁をせかす旦那が描かれています。

子供が大きくなってくると、物心がついてきます。夫婦は子供にセックスを見られないよう、寝付いたことを確認してから、静かに行為を行っていました。

また、当時の子供は11~12歳になると職人の弟子として住み込みで仕事を始めるのが一般的でした。思春期ともいえる年代ですが、この年代の子供は親と同居することはなかったのです。そのため、夫婦は心置きなくセックスをすることができました。

ただし子供がいなくても、当時はどこに住んでいても近隣に住んでいる住人との交流がありました。近所の人に性行為の音が聞こえる可能性があったため、夫婦が完全に心置きなく性行為をすることは困難だったのです。

このように江戸時代は、音を気にしながら性生活する必要がありました。逆にいえば、周りの人たちは誰かの性行為の声を聞くことがよくありました。

ラブホテルの役割をしていた「出合茶屋(であいぢゃや)」

現代にはラブホテルがありますが、江戸時代にもラブホテルと似た施設がありました。それが「出合茶屋(であいぢゃや)」です。音が筒抜けになるため、現代の夫婦がラブホテルを利用するのと同じように、江戸時代でもこうした施設が活用されていました。

また、結婚していなかった、もしくは不倫をしていた男女はセックスをするために出合茶屋を利用していました。

出合茶屋に入店するときの流れ

出合茶屋は江戸の各地にありました。多くの場合、大通りにはなく目立たない裏路地で営業されていました。出合茶屋に来店したのは人目を気にする男女が多かったため、店の場所は見つかりにくい場所にあったのです。

出合茶屋は2階建てになっていました。入り口には暖簾(のれん)がかかっており、入ると小さな土間(どま:床を張らず、地面のままの場所)があるのが一般的でした。土間の横には受付がありました。3畳(4.96 m2)ほどに仕切られた小さな部屋でした。

多くの場合、受付には老婆が座っていました。老婆は男女の客と目を合わせず、「いらっしゃいませ」などの挨拶もしませんでした。無愛想にも思えますが、男女のカップルは「気まずい思いをしなくて良い」として、逆に好評でした。

土間から店に上がると、プレイの部屋に続く「2階への階段」がありました。老婆は男女が2階へ上がる前に、お茶が乗ったお盆を渡してくれます。そして、「菊の間(部屋の名前)が空いております」のように利用できる部屋を教えてくれました。

こうして男女は2階に上がり、部屋に入ってセックスを楽しみました。

出合茶屋の部屋はふすま(木の枠に紙や布を貼ったもの)で仕切られていました。しかし、性行為中のあえぎ声などの音は隣の部屋に筒抜けの状態でした。ただ、「横にいるのは見知らぬ男女」と思えば、二人は気にすることなくセックスをすることができました。

出合茶屋でのプレイ中~プレイ後

出合茶屋の2階に上がって部屋に入ると、男女は二人きりの世界に入りました。出合茶屋で出されたのは基本的にお茶だけでした。ただ、店によっては酒や食事を注文できるところがありました。

老婆はお茶を利用客に運ばせました。もし老婆が2階にお茶を持っていくとすると、男女の時間に割り込んでしまうことになります。お客にお茶を運ばせたのは、「二人を邪魔しないための配慮」だったのです。

性行為中、老婆は利用客が脱いだ履物を下足箱(げそくばこ:靴入れのこと)に入れました。

出合茶屋には同じ時間帯に複数のカップルが入店することがありました。そのため、老婆はほかの男女の目に触れないよう素早く靴を収納していました。また、これは「利用客が帰り際に料金を支払わずに逃げるのを防ぐため」でもありました。

さらに、プレイ後には老婆は男女を入り口とは別の裏口に案内しました。これも「利用客がほかの男女と鉢合わせすることがないように」という老婆の配慮でした。

出合茶屋が密集していた「不忍池(しのばずのいけ)」

前述のように、出合茶屋は江戸の各地にありました。その中でも出合茶屋が密集している地帯として有名だったのが、江戸の「不忍池(しのばずのいけ)」というところです。

「花以嘉多(はないかだ)」や「江戸名所図会(えどめいしょずかい)」という作品には、不忍池の出合茶屋の絵が描かれています。不忍池の中央部には「中島(なかじま)」という島がありました。中島にはたくさんの店がありました。その中のいくつかが出合茶屋でした。

また、江戸の遊郭(ゆうかく:風俗街)として有名な吉原にも、「裏茶屋(うらぢゃや)」と呼ばれる出合茶屋に似た店がありました。

吉原の風俗嬢である遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)の元には、商人や芸人、引き手茶屋(ひきてぢゃや:現代でいう風俗案内所)で働く男性などが訪れていました。こうした人は仕事として遊女と接していたため、女性とプレイすることは禁止されていました。

しかし、遊女は商人や芸人と恋愛関係に発展することがありました。そこで、遊女がセックスをするための場所として裏茶屋が利用されたのです。現在ではラブホテルがありますが、出合茶屋も同様の施設です。江戸時代の人たちも、現代人と同様の悩みを持っていたのです。

農民たちの性生活

それでは、農民たちはどのような性生活を送っていたのでしょうか。江戸時代には「農村(のうそん)」が多くありました。農村は、「農業を営んでいる家族が集まった村」のことを指します。

江戸には風俗店が数多くあり、男性は店を訪れて性行為を楽しんでいました。一方、農村の人たちも江戸の街の人々とは違った形で性行為を楽しんでいました。

江戸時代の農民は、昼間は仕事で忙しかった

江戸時代の農民(のうみん:農村で働く人)は、昼間は仕事で忙しい日々を送っていました。農業が仕事だったため、朝早くから起きて仕事に取りかかりました。そして、日没まで働いていました。また、農村では女性も働いていました。女性の場合、農作業をしながら家事もこなす必要がありました。

このように、農民は1日の多くの時間を仕事や家事に費やしていました。男性は江戸の風俗店に行くことは少なく、外の地域に出ることなく農村で過ごしていました。

農民の生活は一見、性生活が少ないように見えます。しかし、こうした中でも農民はセックスをしていたのです。

農民は昼夜問わずセックスをしていた

農民は、昼でも夜でもセックスをすることがありました。農村は江戸の街と違い、周りに人がほとんどいません。そのため農作業をしていた夫婦は、草木などの物影に隠れてセックスをしていました。

現代ではアブノーマル(一般的ではない)なプレイと認識されている野外プレイが、江戸時代の農村では一般的だったのです。

しかし人が少ないとはいえ、夫婦は周囲が見渡せるような開けた場所でセックスをすることはありませんでした。それは、「性行為の最中は男女とも無防備になってしまい、襲われると自己防衛ができない可能性があったため」です。そのため夫婦は基本的に、人に見つからないところで密かにプレイを楽しみました。

江戸時代に詠まれた川柳に、「明日からは、どこでやるべと 麦を刈り」という句があります。この川柳から、麦を刈りながら「セックスをどこでしようか」と考えている男性が想像できます。

また、夫婦は仕事を終えた夜にセックスをすることもよくありました。江戸時代の農村では娯楽が少なく、セックスが楽しみのひとつと考えられていたのです。農民は昼間の農作業で体力を消耗していたとしても、夜になると性行為を積極的に行っていました。

夜這い(よばい)もさかんに行われた

また、農村で一般的に行われていたのが「夜這い(よばい)」と呼ばれる行為です。男性が夜に女性のところに行き、セックスをする行為のことを指します。夜這いでは、女性は寝ている最中に突然男性から襲われました。しかし、当時は夜這いが一般的なこととされていました

女性が夜這いを嫌がることは少なく、むしろ夜に訪れた男性の中から結婚相手を選んでいました。そのため、女性の両親が家にいて夜這いに気付いていたとしても、両親は娘に性行為をしようとした男性に対して口出しをしませんでした。

とくに夜這いがさかんに行われたのが祭りの日です。農村では夏や秋に盛大な祭りが行われました。このときにはひとつの村だけでなく、周辺の村から人々が集まりました。そのため、祭りは男女の出会いの場でもあったのです。

祭りの夜は男女とも大いに盛り上がり、その勢いから男性は夜這いに出かけました。日ごろから気になっていた女性のもとにいく人や、祭りで初めて知り合った女性のもとに、その日のうちに夜這いをするために出かける人もいました。また、女性も祭りの日には夜這いを期待していました。

江戸の街には風俗店があったため、男性は性欲が湧いたら店に遊びにいくことができました。そのため、男性が夜這いをする風習は農村ほどありませんでした。夜這いは農村で多く行われた風習だったのです。

このように、江戸時代の農村には風俗店はありませんでした。しかし野外でのセックスや夜這いなど、特徴的な性生活が繰り広げられていました。それは江戸の街の風俗とも、現代の風俗とも異なるものだったのです。

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