かつての飛田新地の最盛期は、1930年ごろから1937年まででした。このころの飛田新地は日本最大規模の遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)となっていました。全国各地からたくさんの男性客が飛田新地に訪れて、女性とのプレイを楽しんでいました。

しかし1937年に日中戦争が起き、飛田新地のにぎわいはそこで一旦途切れました。ここでは、戦前(第二次世界大戦前)における飛田新地の最盛期、さらには戦後の復興までを紹介します。

最盛期に飛田新地で働いていた風俗嬢は約3,000人

1933年に飛田新地で行われた調査によると、楼(ろう:風俗店のこと)の数は240件、娼妓(しょうぎ:風俗嬢のこと)の人数は3,200人でした。また、1936年に大阪市が行った調査によると、楼は217件、娼妓は2,646人でした。

飛田新地で行われた調査の数字と大阪市の調査の数字には差があります。しかし、飛田新地が遊女の人数でいうと2,000~3,000人規模の遊郭であったことには間違いありません。

これは当時の遊郭の中でも屈指の規模でした。そのころ日本に存在した遊郭の数は約550カ所でした。また、全国の娼妓の人数は45,000人でした。つまり、ひとつの遊郭にいる娼妓の平均人数は約82人という計算になります。飛田新地はこの数字を大きく上回っていました。

また、飛田新地と比べられる遊郭に、東京の「吉原」があります。そして、吉原よりも規模の面では大きかった遊郭に、名古屋の「中村遊郭」があります。1930年ごろの中村遊郭は楼が約140件、娼妓が約2,000人でした。飛田新地は中村遊郭と比べても大きく、まさに「日本トップクラスの遊郭」だったのです。

最盛期の飛田新地のにぎわい

飛田新地の楼は当時、和風の造りに洋風のデザインを取り入れた店構えで、2階建てでした。入り口には両開きで押すタイプのドアがあり、男性客はドアから入店しました。現在の飛田新地ではドアが開け放たれていますが、当時は閉められていました。

入店すると、在籍している娼妓の写真が整然と並んでいました。男性客はその写真を眺めて、プレイする女性を決めることができました。

飛田新地は1918年に設立されました。最盛期だった1930年代は、設立から10年が過ぎた時期です。

また、数多く存在した飛田新地の楼の中には、いわゆる「人気店」がありました。その中でも特に人気だったのは「長谷川」と「御園楼(みそのろう)」という楼です。どちらも飛田新地にあった大通りの突き当たりの左右にありました。大通りを進んで左手に長谷川、右手に御薗楼がありました。

東京の吉原では、女性とプレイをする前に宴(うたげ)を行い、酒や食事を楽しむのが一般的でした。また、「引手茶屋(ひきてぢゃや)」と呼ばれる風俗案内所があり、男性客はこの店の紹介で遊ぶ店を決めることがよくありました。

飛田新地ではこうしたシステムはなく、楼に直接行ってセックスを楽しむことができました

現代と同じく、当時も風俗店を紹介するガイドブックが出版されていました。そのころ出版されていた書籍に「全国花街(はなまち)めぐり」という作品があります。著者は松川二郎(まつかわじろう)という人物で、1929年に出版されました。

飛田新地は「全国花街めぐり」で賞賛されており、旅先で女性とのプレイを楽しみたい男性にとって参考となる情報でした。

当時の飛田新地は、夜中の3時でもにぎやかな雰囲気だった

現代の飛田新地は夜中0時で全ての風俗店が閉店します。これは、飛田新地のルールとして決められているためです。しかし、かつての飛田新地では、夜中の3時でもにぎわっていました。その盛り上がりは大阪全体の中でも目立つほどでした。

当時、夜中の3時に楼を訪れた男性は、「遊び回って少し疲れた。お茶漬けでも良いので食べるものはないですか」と、店のスタッフに尋ねました。すると、本膳(ほんぜん)と呼ばれる本格的な食事のメニューがすぐに用意されました。店の素早い対応は、「夜中3時でも来店するお客様が多かったため」だと考えられます。

こうした様子から、飛田新地を「不夜城(ふやじょう:夜でも明るくにぎやかな場所)」と呼ぶ人もいました。

戦後の飛田新地はどのように復興したか

このように飛田新地の最盛期は、全国でも屈指の遊郭として栄えていました。1937年に日中戦争が始まるまで、飛田新地は最盛期ともいえるほど華やかだったのです。しかし戦争が始まると、客足は途絶えました。大阪は1945年の終戦までに33回にわたる空襲を受け、焼け野原になりました。

こうした状況の中で、飛田新地は北東部の一部が損害を受けたものの、ほかの地域は奇跡的に大きな被害がありませんでした。

終戦となった年の年末には、飛田新地に人が戻ってきた

第二次世界大戦、終戦直後の飛田新地からは人がいなくなりました。人々は避難のためにほかの場所に移動し、飛田新地には砂糖が焼ける臭いが漂っていました。当時、砂糖は手に入りにくいものでしたが、飛田新地の楼(ろう:風俗店のこと)は砂糖を隠し持っている店が多かったのです。

また、戦後の飛田新地では喧嘩がたくさんありました。土地や建物の所有権の争いで「ここまでが自分の土地だ」、「土地の権利は自分にある」という喧嘩が絶えませんでした。

ときには仲裁に入った人が地面に線を引いて、「ここまではAさんの土地、ここからはBさんの土地」というように土地の分配をしていました。

終戦直後の飛田新地には人が少なく、上記のような争いごとが多くありました。しかし、終戦となった1945年の年末には、少しずつ人が戻り始めました。戻ってきた人は楼を経営する楼主(ろうしゅ)や風俗の仕事をしたい女性、女性とプレイしたい男性客が中心でした。

1946年までに飛田新地に戻ってきた楼は約150件、娼妓(しょうぎ:風俗嬢)は約800人でした。戦前のピークのころには楼は約240件、娼妓は約3,000人でした。最盛期のころと比べると少ないですが、飛田新地の復興スピードは非常に早いものでした

店や風俗嬢の呼び方が変わったものの、システムは継続

戦後に日本の民主主義を作ったのが、マッカーサーを最高司令官とした「GHQ」という機関です。

飛田新地は公娼制度(こうしょうせいど)という制度により、政府に認可された遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)でした。公娼制度という名称は、「公」に「娼妓」が認められたことに由来しています。

しかしGHQは「民主主義に反する」として、公娼制度を廃止しました。警察はこれに従い、楼と娼妓に廃業届を出させました。しかし、飛田新地から風俗店がなくなったわけではありませんでした。

警察は全国に存在した風俗店を「接待所(せったいじょ)」、風俗嬢を「接待婦(せったいふ)」と名称を変えさせました。飛田新地もこれにならい、楼は「接待所・カフェー・料亭」という名称になりました。また、娼妓は「接客婦・女給(じょきゅう)」という名称になりました。

こうして楼や娼妓の名称を変えさせることで、警察はそれまで続いていた遊郭を存続させました。

これは日本がGHQに反発するためではありません。GHQは公娼制度を非難していたものの、実際は売春婦を必要としていたのです。

公娼制度の廃止により楼がなくなることで、GHQの兵士による性犯罪が起きていました。日本人だけでなく、GHQの兵士たちも性欲処理に困っていたのです。そのため、警察は公娼制度の廃止に従う形で遊郭を残し、米兵による性犯罪を防いだというわけです。

性病により米兵が飛田新地からいなくなり、再び一般市民の遊郭に

こうして飛田新地には日本の男性客だけでなく、GHQの兵士も訪れるようになりました。ただ、飛田新地で以前から問題になっていた性病が、GHQの兵士にも広がるようになりました

GHQはこれに驚き、兵士に「遊郭への立ち入り禁止」の通達を出しました。遊郭にはもちろん飛田新地も含まれました。こうして、一時的に米国の兵士が多くなった飛田新地ですが、もとのように一般の日本人男性客が訪れる街に戻ったのです。

このように、飛田新地は戦争による被害が少なかったため、戦後翌年には人が戻ってくる状態になっていました。ただ、GHQによる公娼制度の廃止で、それまでの楼や娼妓の名称はなくなりました。戦後は日本にとっても飛田新地にとっても、大きな変化があった時期でした。

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