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日本古来の性事情は極めて興味深い点を有しています。性に限らず、今とは全く異なる感性を持つ当時の情景は、時に異様なものにさえ映ります。江戸時代にもなると、日本人はかなり現代に近づいた感性を持つようになりますが、それでも今とはさまざまな点で異なります。

ここでは、当時の女性の性的初体験について調べていきます。注意すべき点は、その女性の生まれた家によって、初体験の事情が大きく異なったという点です。また、結婚についてはそれぞれ違いがありました。

庶民女性の初体験

江戸時代における庶民とは、士農工商の中の士を除いた身分と、いわゆる差別階級であったエタ・ヒニン以外を指します。

そのため、庶民と一口に語っても、大きく境遇が異なるため一概に言い表すことはできません。ただし、当時は15、16歳ほどが結婚の適齢期とされていた時代でした。

そうした背景から、それ以前にセックスの初体験を済ましている女性は多かったと考えられています。つまり、江戸時代の価値観からすると、婚前交渉は当たり前であったのです。

とはいえ、これは現在の価値観と通ずるところがあります。現在でも、結婚をするまでセックスを頑なに拒むという女性はごくわずかです。そのため、江戸時代と現在の価値観が近しいことに違和感を覚える方も多いでしょう。今では「昔の女性は皆、貞淑であった」という考えも浸透しているからです。

ただし、この「庶民であっても貞淑であれ」という考え方が生まれたのは、明治以降といわれています。明治に流入したキリスト教的な価値観が女性を貞淑にさせたのです。

つまり、江戸時代から現在までの間に時代が一周して、再び性的な価値観が切り替わったと考えるべきなのでしょう。

豪商家庭に生まれた女性の初体験

庶民の中でも比較的経済力を持っていた、いわゆる「長者(ちょうじゃ)」の家系に生まれた女性は、箱入り娘として育てられる傾向にありました。一家の血筋をより政治的につなげていくために、リスクの高い婚前交渉を一家の娘にさせるわけにはいかなかったのです。

もちろん、そうした家系に生まれた女性が出かける際には、常に付き人が同行していたため、男性と自由に恋愛する隙はほとんどなかったといいます。そのため、初体験も親の決めた結婚相手との初夜であるケースが多く、ただの庶民とは境遇が大きく異なっていることがわかります。

もっとも、結婚後に恋愛を楽しみたくなってしまった女性も多いそうで、夫の目を盗んで愛人と逢引をしているケースも見られました。

武家の女性の初体験

江戸時代において、最も性的な自由がなかったのが武家に生まれた女性です。

武家はその血筋の正統性こそが、権力のよりどころであったため、先ほどの豪商以上に血縁に関して注意を払っていました。そうした背景からか、明治以降のキリスト教的なモラルとは別に、すでに「武家の女性は貞淑であるべき」という概念が構築されていたのです。

もちろん、女性にはほとんど自由が与えられず、初体験も初めて顔を知った婚約者である場合が多かったのです。

遊郭(ゆうかく)の女性の初体験

遊郭はそもそも、現在でいうところの風俗街です。そのため、遊郭で生まれた女性は遊女(ゆうじょ)や花魁(おいらん:遊女・花魁いずれも売春婦の意味)として働く運命がほとんど決定していました。

ここで生まれた女性は、15歳まで雑用をさせられ、それ以降は「突き出し(つきだし)」という立場になり、客を取り始めるようになりました。そのため、初体験は客であることがほとんどでした。

江戸時代の性道徳は、実際のところ現在の感覚に近いところがあります。あえて異なる点を示すと、やはり家という重さが今とは段違いであることでしょう。

江戸時代の女性の性体験は早かった

前述の通り、江戸時代の女性は15~16歳で結婚適齢期を迎えました。現代でいうと中学生や高校生にあたる年代で、結婚のタイミングは今と比べて早かったといえます。

また、江戸の有名な遊郭であった吉原や岡場所(おかばしょ:違法に営業されていた風俗街。江戸の各地にあった)で働く遊女も、15歳前後で男性客からの指名を受け始めました。

現代の法律では18歳から風俗嬢になることが認められています。これと比べると江戸時代の女性は、結婚だけでなく風俗嬢になるタイミングも早かったといえます。

さらに、江戸時代は結婚適齢期が15~16歳であったことから、女性の「初体験」も早めでした。

現代に残っている江戸時代の文献「艶紫娯拾余帖(えんしごじゅうよじょう)」によると、「多くの女性は15歳前後には初体験を終えている。婚前交渉(こんぜんこうしょう)も当たり前に行われている」と書かれています。婚前交渉とは、結婚前に男性が「セックスをしよう」と女性に交渉することを指します。

こうしたことから、結婚する段階で処女の女性はほとんどいませんでした。江戸時代の人々は、「結婚相手の女性が処女なら、その男は幸せ者だ」といわれていました。

武家の娘の結婚は遅めだった

上記のように一般女性は早くから性体験がありました。これに対して性体験が遅かったのが「武家の娘」です

武家の妻や娘は「貞節(ていせつ)」が大切とされていました。貞節は「むやみと男性に体や心を許さないこと」です。

武士は女性に対して厳しく、ほとんど女性に自由を認めませんでした。一家の主(あるじ)である武士は、娘を一人で外出させることを許しませんでした。また、娘が親や兄弟以外の男性と話をすることも禁止していました。そのため、武家の娘は男性と出会う機会がほとんどなかったのです。

武家の娘が男性と出会うきっかけは、親が準備しました。武家の主が「この家なら娘を嫁がせたい」と考えた家の親に縁談を持ちかけ、結婚を娘に勧めました。武家の主が勝手に話を進めることがあっため、娘は夫の顔を結婚した後に初めてきちんと見ることさえありました。

このように、一般女性が早くから初体験を終えて自分で結婚相手を選ぶのに対し、武家の娘の境遇は一般女性とは大きく違っていました。

また、武家の娘まで厳格ではないものの、「大きな商店の娘」も見知らぬ男性と出会う機会がありませんでした。こうした娘はいわゆる「お金持ちの家の娘」として、大切にされました。

大きな店の娘が外出するときには、必ず女中(じょちゅう:世話役の女性)が付き添いました。そのため、大きな店の娘が男性と人目を忍んで会うことは難しい状況でした。

武家の娘であっても、性に奔放な女性もいた

武家の娘は基本的には男性経験が少なく、貞節を守る人がほとんどでした。しかし、中には男性好きで奔放な行動をする女性がいました。こうした人は両親がいないタイミングを見計らって、男性との交際を楽しんでいました

しかし、奔放な行動が行きすぎて、女性の行動が両親に知られてしまうことがありました。多くの場合、娘は叱られるだけで済みました。しかし、ときには女性の行動が行き過ぎたために、勘当されてしまうことがありました。

こうした女性は男性の家で一緒に住むようになったり、遊女として仕事をするようになったりしました。武家の娘であっても、稀ながらこうしたケースがあったのです。

このように一部の例外があるものの、江戸時代の女性は現代よりも性体験が早い傾向にありました。現代からすると驚いてしまいますが、当時はこれが常識だったのです。

江戸時代の男女はお見合い結婚が多かった

それでは、結婚はどうだったのでしょうか。江戸時代の男女は、恋愛に関しては身近にいる人としていました。ただ、結婚はお見合いでする場合が多くありました。お見合いの仲介をしてくれたのは一般庶民の場合、主に両親でした。

江戸の一般庶民は長屋(ながや)という長細いつくりの建物に住んでいました。現代でいうアパートやマンションなどの集合住宅にあたるものです。

長屋の人々はお互いに情報交換をして、結婚を希望する男女をリストとしてまとめていました。そして、相性が良さそうな2人がいれば縁談を行っていたのです。

また、江戸時代には建築職人の仕事をしていた男性がたくさんいました。職人の男性の場合は親方が仲介役でした。さらに、商家(しょうか:商店を営業している家)ではプロの仲人(なこうど)に依頼して息子や娘の結婚相手を紹介してもらうことがありました。

このようにそれぞれの家で仲介人は違うものの、江戸時代はお見合い結婚が一般的となっていました。

結婚に至るまでの流れは、家柄によって異なった

男性が特定の女性と「結婚したい」と思った場合、仲介人が女性に男性の気持ちを伝えました。

現代の女性なら「あなたと結婚したいと考えている男性がいる」と伝えられても、その男性とデートを重ねたり、時間を取って考えたりして、すぐに結婚をしないのが一般的です。しかし江戸時代の一般女性は、結婚を求められるとすぐに応じる人が多くいました

また、武家(ぶけ:武士の家)の場合、家同士での話し合いで結婚が決まりました。お互いの家の男女が結婚すると、家同士のつながりが深くなります。そのため「今後長期間にわたり、一緒に人生を歩むことができる家なのか」ということを、お互いの家が判断して縁談を進めたのです。

商家の場合もお互いの家柄を確認し合い、納得した後に男女が結婚するのが一般的でした。商家は当時、富裕層にあたりました。そのため、「相手の家柄が自分の家と釣り合うのか」を気にしました。

農家の場合、お互いの両親が話し合いました。

農家では男性が「夜這い(よばい:夜に男性が寝ている女性のもとを訪れて、性行為をすること)」をする風習がありました。現代では考えられない行為ですが、当時の農家では「男性が女性に対して好意を伝える行動」とされていました。

男性が夜這いにくると女性の両親は気が付きましたが、それを止めることはしませんでした。

このように農家の男女の両親は状況を先に把握していることが多かったため、両親同士の話合いはスムーズに進みました。

結婚式は家によって異なった

現代では男女が結婚するときには、結婚式が行われるのが一般的です。江戸時代に結婚式が行われるかどうかは、家によって異なりました。

長屋に住む一般庶民の場合は、結婚が決まると男性の家でお祝いが行われました。ただ、お祝いは現代の結婚式のように華やかなものではなく、食事は味噌汁やするめなどの簡単なものでした。また、長屋の大家がお祝いのお酒を持ってくることがありました。

これに対して商家の結婚式は、結納(ゆいのう:男性が結婚する女性の家へ挨拶に行くこと)が行われた後に宴が行われました。宴は盛大でにぎやかな雰囲気で行われ、出席者には食事やお酒がふるまわれました。

また、武家も商家と同じく盛大な結婚式が行われました。

商家や武家の場合、結婚する女性はいわゆる「嫁入り道具」を新居に持っていきました。裕福な家の場合は茶碗や火鉢、扇、鏡などの豪華な道具が揃えられました。そしてその数は100点以上になることさえありました。

このように江戸時代の男女の結婚式はお見合いによって行われることが一般的でした。さらに家によって、結婚の仕方は大きく異なっていたのです。

女性が結婚するとつけていた「お歯黒」

なお、江戸時代の女性ならではの風習に「お歯黒(おはぐろ)」があります。お歯黒とは、「歯に液体を塗り付けて、白い歯を黒くすること」を指します。お歯黒は化粧のひとつとして行われましたが、女性はお歯黒にさまざまな意味を込めていました。

江戸時代のお歯黒は「既婚者を示す証」でした。江戸時代の初期のころは、女性は13歳になると「大人の仲間入り」とされていました。これは、生理が始まる年代が13歳ごろのためです。そして、大人の証としてお歯黒を塗っていました。

しかし、時代が経つにつれて大人の仲間入りとされる年齢が高くなりました。13歳から16歳や18歳となり、最終的に結婚するタイミングでお歯黒がつけられるようになりました。お歯黒は裕福な上流階級の女性から始まりましたが、のちに一般の女性にも広まりました。

お歯黒は「黒は何色にも変わらない色である。心が移り変わらず、旦那以外の男性とは浮気をしない」という意味が込められていました。つまり、女性が「貞操(ていそう)を守る」意味があったのです。

既婚の女性のお歯黒は、美しい女性に欠かせないものでした。そして、「むらのない漆黒(しっこく:光沢がある黒色)のお歯黒が美しい」とされていました。

江戸時代には浮世絵(うきよえ:江戸時代の絵画のひとつの種類)のモデルとして女性が多く描かれました。そして、お歯黒を塗った女性が描かれることはよくありました。

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お歯黒は江戸時代には広く普及していましたが、明治時代(1868~1912年)に入ると政府はお歯黒を禁止しました。政府は近代化を進めるためにちょんまげや刀を禁止し、これらと合わせてお歯黒も禁止したのです。

ちなみにお歯黒は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる「酢に鉄を溶かした茶褐色の液体」に、五倍子粉(ふしこ)という「タンニンを含んだ粉」を混ぜて作られました。虫歯を予防する効果がありましたが、悪臭をともなう液体でした。

遊女(ゆうじょ)は未婚でもお歯黒をした

江戸時代で魅力的とされた女性に、「吉原の遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)」がいます。吉原は江戸の中でも屈指の遊郭(ゆうかく:ふうぞくがい)として人気でした。吉原の遊女には独自のルールがたくさんあり、その中のひとつに「吉原の遊女は未婚でもお歯黒をする」というものがありました。

吉原の遊女がお歯黒を塗ったのは、「ほかの風俗街の遊女とは違う独自性を打ち出すため」というのがひとつの理由です。ただ、もうひとつの理由として「男性客に対して妻を演じるため」という目的もありました。

当時の男性の常識は「お歯黒をしているのは既婚の女性」でした。そのため、吉原の遊女はお歯黒を塗ることで、男性客に対して「私(遊女)はあなた(男性客)だけの女性」という疑似恋愛を体験させてくれたのです。

また、遊女は男性客を常連にするために、お歯黒だけでなくさまざまな話術やテクニックも合わせもっていました。

未亡人の女性は、お歯黒をつける人とつけない人がいた

女性によっては、旦那に先立たれてしまう人がいました。こうした女性は未亡人(みぼうじん:夫が亡くなり、再婚していない女性)となりましたが、お歯黒をそのままつけるかつけないかは、人によって異なりました。

お歯黒をつけたままの女性は「ほかの男性と再婚する気はない」ことを示していました。お歯黒をつけない女性は未婚の女性と同じ見た目になるため、男性から「ほかの男性と結婚する気持ちがあるのでは」と考えられていました。

江戸時代は建物が木造で周囲の家からの物音や声がよく聞こえたため、性行為をしているときの音が筒抜けになることがよくありました。そのため、近所の女性の性事情を知れる機会がありました。

そして、お歯黒をつけていた女性が白い歯に戻っていると、「もしかしたらこの女性は男性とのセックスを求めているのかもしれない」と想像を膨らませることがありました。

このようにお歯黒は化粧のひとつとして行われるだけでなく、さまざまな意味が込められたものでした。お歯黒は江戸時代ならではの文化だったのです。

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