かつて、飛田新地で働いていた風俗嬢は娼妓(しょうぎ)と呼ばれました。飛田新地は政府公認の遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)だったため、娼妓として仕事をする女性は届出が必要でした。届出の記録は現在まで残っており、飛田新地の設立初期にどのような女性が娼妓になっていたのかを知ることができます。
ここでは、飛田新地の設立初期の娼妓について紹介します。
娼妓として届出をする際の内容
娼妓として仕事をするための届出は警察に出すことになっていました。
届出を出すためには行うべきことがあり、まずは「健康診断」を受診することが必要でした。また、「届出書類の記入」も必要でした。記入項目は、前借金(まえがりきん)の額・娼妓になる理由・生年月日・家族の承諾・仕事をする楼(ろう:風俗店のこと)・これまで行っていた仕事などです。また、娼妓の経験がある場合はその経歴などを記入する必要がありました。
これと合わせて戸籍謄本・承諾書・健康診断書を警察に提出します。そして警察から「合格」が出ると、娼妓として仕事を始めることができました。
現代の風俗嬢は比較的簡単に仕事を始めることができます。しかし、かつての飛田新地では上記のように複雑な手続きが必要でした。
娼妓の年齢は20歳前後が多かった
かつての飛田新地の娼妓の年齢は、20代前半までの女性が中心でした。飛田新地が設立された1918年に大阪駆黴院(おおさかくばいいん)という病院の院長である上村行彰(かみむらゆきあき)氏は、娼妓にした健康診断を元にして娼妓のデータを作成しました。そして「売られ行く女」という文献としてデータを発表しました。
娼妓として仕事ができるのは18歳からでした。「売られ行く女」によると、18歳でから仕事を始める女性が最も多く、全体の25%でした。
次に多い年代から順に、19歳が20%、20歳が14%、21歳が10%と続きました。娼妓の最高齢は39歳でした。
また、娼妓になった女性全体の15%に結婚経験がありました。さらに、そのうちの57%には子供がいました。娼妓になった女性には「男性とのセックス経験」のない人はいませんでした。
このように、かつての飛田新地では18~21歳までの若い女性が多く働いていました。現代の飛田新地も20代前半の女性が中心ですが、設立当初からその傾向は続いているのです。
娼妓の実家・経歴
娼妓のうち、両親がいた人は54%でした。また、父親か母親のどちらかがいた人は38%でした。残りの8%は両親がいない女性でした。
女性が娼妓になる前の職業は農業が最も多く28%、商業が21%、工業が20%となっていました。
娼妓に農業をしていた女性が多いのは、飛田新地が設立された1918年に起きた「米騒動」が理由でした。第一次世界大戦での食料が必要なことから、一般市民が購入できる米が少なくなり、米の価格が2倍になりました。生活に困窮した農家の家族は娘を娼妓にすることで、家計をしのいだのです。
女性が娼妓の仕事を始めた理由
女性が娼妓の仕事を始めた理由で多いのは「実家の貧困を助けるため」でした。前述のように、生活に困った実家のために働く女性は多くいました。
また、ほかの理由としては「旦那が亡くなり、女性一人で子供を育てる必要があったため」、「父親が残した借金返済のため」などがありました。
現代の飛田新地で働く女性は、実家を助けるためという理由の人は減っています。多くの場合はブランドものを買いすぎた、ホストクラブに夢中になりすぎた、などの「自分の事情により抱えた借金を返済するため」に働く女性が多いです。
そのため現代と当時では、女性が飛田新地で働く理由には大きな違いがあるといえます。
このように、かつての飛田新地で働く娼妓は20歳前後の若い女性が多く、現在と共通する部分がありました。ただ、その一方で娼妓になるためには手間のかかる届出が必要で、仕事を始める理由は家族を助けるためであることが多いなど、現代とは異なる面もあったのです。
設立当時の飛田新地の風俗嬢は豪華な生活ができた
なお、娼妓は実家の生活が困窮したことから仕事を始める人が多くいましたが、毎日をつまらなく過ごしていたわけではありませんでした。
当時の娼妓の生活は、今の飛田新地で働く風俗嬢とは異なる面がたくさんあります。
娼妓は風俗店から部屋を与えられて生活していた
娼妓は当時の風俗店である楼(ろう)から1人につき1つの部屋を与えられていました。娼妓は「居稼(てらし)」と呼ばれ、住み込みで仕事をしていました。部屋は現代の約六畳(約9.72m2)の広さでした。
部屋には鏡台やたんす、座卓(ざたく)と呼ばれる机、寝具などが置かれていました。家具はどれも高価なもので、部屋も美しく整えられていました。
飛田新地の楼での生活は、娼妓によってはそれまでの人生で最も良い生活となる場合がありました。
食事も楼から提供された
娼妓は食事も心配する必要がありませんでした。楼にはまかない料理を作ってくれる女性がいて、毎日3度の食事を娼妓に提供してくれました。これは「売上を上げてくれる娼妓が栄養不足で倒れては楼が困る」という理由からです。
基本的なメニューは「白米に加えて汁物とおかずが1品ずつ」という構成でした。楼には「紋日(もんぴ)」というお祝いの日がありました。この日にはメニューに魚が付けられることがありました。
楼から提供されるメニューは上記のようなものでしたが、これ以外に娼妓は男性客に食事をねだることができました。娼妓は親方(おやかた:飛田新地の楼の主人のこと)から男性客へのお願いの仕方についてアドバイスをもらい、その通りにお願いをしていました。すると天ぷらや寿司、丼など、当時は御馳走といわれるメニューを食べることができたのです。
着物も豪華なものを着ることができた
娼妓は着物も豪華でした。娼妓は東北地方など、田舎出身の女性が多くいました。田舎で着る服は素材が木綿のものが一般的でしたが、飛田新地では絹の着物でした。娼妓は「良い家のお嬢様」のような着物を着ることができ、多くの女性にとって人生初めての経験であることがほとんどでした。
飛田新地の楼には、定期的に着物を販売する商人である呉服屋(ごふくや)がやってきました。入荷した新しい着物を持ってきて、楼の親方やまかないを作ってくれる女性も娼妓と一緒に着物の品定めをしました。このように華やかな着物を着ることで、娼妓は男性客を魅了していたのです。
娼妓の収入の取り分
楼の売上は、楼の親方と娼妓に分配されました。飛田新地における楼の売上は、楼と娼妓で4:6の割合で分配されるのが一般的でした。東京の遊郭(ゆうかく:風俗街)として有名な吉原では、店と女性が6:4の割合で分配されることが多いため、飛田新地の楼は良心的といえます。
ただ、娼妓は収入から楼に対してさまざまな費用を支払う必要がありました。生活するための部屋代や食費、衣装の費用、寝具の代金などの支払いがありました。そのため、一見すると娼妓の取り分が多く見えても、結局は楼のほうが利益は大きくなりました。
このように支払う費用が多かったことから、娼妓は快適で華やかな生活をすることはできましたが、抱えていた借金はなかなか減りませんでした。そのため娼妓は飛田新地で長く仕事を続けることが多くありました。
娼妓にとって、楼の生活が全て
娼妓はこのように衣食住に困らない生活をすることができました。娼妓は楼の主人を「親方」、「マスター」、「お父さん」などのように呼びました。親方の存在は非常に大きく、親方を中心として楼では「家族のような集まり」が構成されていました。娼妓は親方のいうことには絶対服従でした。
また、親方は娼妓を娘のように考えていました。ただ、これは現代では2通りに解釈されています。「親方は娼妓を本当の自分の娘のように可愛がっていた」という意味で解釈されることがあれば、「娼妓は親方が所有していて、楼の売上を上げてくれる存在」という意味にも解釈されています。
それでは、飛田新地の楼を経営していた楼主(ろうしゅ:楼の経営者)にはどうのような人がいたのでしょうか。楼主には岡山県や奈良県など、大阪以外の地方出身の人がたくさんいました。
また、楼主の中には風俗業界未経験の人がたくさんいました。以前は村役場で仕事をしていた人や小学校の教員だった人もいました。
また、料理店やかまぼこ屋、帽子屋、料理店など、さまざまな商店の店主だった人もいました。こうした商売で経営の経験を積み、資金が貯まったタイミングで飛田新地に楼を出店した例が多くありました。
大阪には飛田新地以外に今里新地(いまざとしんち)という遊郭がありました。また、近隣の京都の七条新地(しちじょうしんち)という遊郭もにぎわっていました。こうした遊郭から飛田新地に移転する人もいましたが少数派でした。それよりも、前述の通り風俗未経験の人が多かったのです。
さらに、1941年から1963年まで飛田新地の取締を担当していた高岩友太郎(たかいわゆうたろう)という人物がいました。高岩氏の経歴は元巡査です。当時の飛田新地は「法律的に合法」として運営されていましたが、高岩氏は警察と密接に関係していたことが想像されます。
楼主の子供が楼を継ぐことは少なかった
飛田新地の楼主の中には、家族をもっている人がいました。楼主の子供は多くの場合、父親が経営していた楼を継ぎませんでした。楼主が継がせようとしなかったのです。
大きく利益を上げていた楼の楼主は、得た利益で子供に教育をつけさせました。そして、楼の経営以外の仕事に就けさせていました。
そのため楼主の子供には、弁護士や医師、税理士など日本で高学歴と認識される人がたくさんいました。また、子供が女の子だった場合は、安定した商売を行っている男性に嫁がせました。
こうしたことから、飛田新地の楼が二代、三代と続く例はほぼありませんでした。むしろ、楼主の間では「楼を子供に継がせるのは愚かなこと」と考えられていました。
当時の楼主の様子
大阪は商売が盛んな都市でした。そのため飛田新地の楼主の多くは、お金に対して厳しく考えていました。
1936年には大阪府から楼主に、娼妓(しょうぎ:楼で働く風俗嬢)に対する待遇の改善命令が出されました。楼主は娼妓への待遇を改善したことで一時的に利益が減りました。そのため楼主は利益を伸ばそうと考えて、楼を営業するための建物を借りている不動産業者に「家賃を安くしてほしい」と要求しました。
楼主たちは団結して「大阪土地建物」という不動産業者に交渉しましたが、要求は受け入れられませんでした。
また、楼主たちは「飛田新地を守る活動」も行っていました。
もともと飛田新地への遊郭設立は、「周辺地域の風紀が乱れる可能性がある」として強い反発がありました。そして、飛田新地設立後も反対運動は続いていました。楼主たちは反対運動を静めるために「猛反対運動」と呼ばれた活動を行っていました。
楼主たちは娼妓制度の廃止を求める衆議院議員やキリスト教団体などに対して、「暴漢には暴漢を」と考えていました。そして、罵声を浴びせるなどの強引な行為で運動を静めていました。
このように、設立初期の飛田新地の楼主は大阪出身の人よりも地方から来た人が多くいました。またお金に厳しく、ときには乱暴な行動を取ってしまうことがありました。
現在の飛田新地の風俗店経営者は、かつての楼主のような乱暴な行動は行わないようになっています。また、飛田新地をより良い街にするために、清掃活動を行ったり、景観向上のために街を改装する活動を行ったりしています。飛田新地の風俗店経営者は、時代とともに変わってきているのです。