遊女(ゆうじょ:昔の売春婦の呼び名)は江戸時代以前にも存在し、日本で多くの性文化を創出することに一役買っていました。もちろん、そうした文化は下品なものではなく、むしろ上品で粋(いき)なものとしてもてはやされました。
そのため、遊女は上品で粋でなければ務まりませんでした。特に、太夫(たゆう)や天神(てんじん)などの高級遊女は、遊女に求められる素質を網羅している必要があり、日夜努力を重ねていたといいます。
彼女たちには、容姿やスタイル以外にも、「日常の所作における決まりごと」や「遊女としての高い意識」が要求されました。
ここでは、遊郭(ゆうかく:遊女たちの働く風俗街のようなもの)で一体どのような遊女が好まれたのかを解説するとともに、遊女たちの行っていた知られざる努力について垣間見ていきたいと思います。
江戸時代に好まれた遊女
遊郭の文化が最も華やかだったのは、おそらく江戸時代です。江戸時代には、井原西鶴(いはら さいかく)の『好色一代男』に代表されるような、官能的な娯楽が一世を風靡しました。このような流行が起こった理由としては、「遊郭で発生した粋な文化の影響ではないか」と考えられます。
そんな江戸時代にもてはやされたのは、「上方出身」の遊女だったとされています。上方とは現在の近畿あたりを指すのですが、「上方出身」とは間接的に「京都の出身」を意味します。
現在でも、京都出身の女性と聞くと、なんとなく可憐で上品な方をイメージしてしまいがちです。そうした考え方は江戸時代にもあったのでしょう。
一方で、東北や江戸以外の関東、北陸出身の女性は、「イモ臭い」とされて人気ではありませんでした。しかし、これはただの差別ではありませんでした。なぜなら当時、出身は容姿に色濃く表れていたからです。
貧しい農村地帯に生まれた女性の一部は、こうして遊郭に売られたことも多かったのですが、都会の暮らしとは大きく異なっていました。特に食生活は全く異なり、田舎の食べ物は都会のものに比べ、基本的に固いものばかりでした。
そのため、咀嚼(そしゃく)のためのあごの筋肉が発達し、丸顔になってしまう女性が大半でした。それに比べ、都会の良い食べ物を食べて育った女性は、すらっとしたあごのラインであることが多かったそうです。
また、江戸時代は身長の高い女性が好まれていました。したがって、今でいうハイヒールのような役割を持つ、高下駄が流行したというエピソードもあります。
品格が重視された
高級遊女になるためには、容姿やスタイル以外にも、「品格の良さ」が重視されました。
この時代、遊女は客にとって高嶺の花であり続けなければなりませんでした。そのため、「大声で笑うこと」も、「客よりも早く寝る」ことも許されませんでした。
はにかむ程度ならばいいものの、どんなに面白いことがあっても決して笑うことは許されず、どんなに眠くても客に甘えて先に寝ることはできなかったのです。
こうしたいわゆる「遊女の品格」は、今の感覚からすると少々冷たすぎる印象を与えてしまいます。ところが、こうした態度は当時の男性を大いに熱狂させたのだと伝えられています。
そんな遊女が、客の前で一番してはならなかったことがありました。それが「おなら」です。
現在でも、人前でおならをすることは下品な行為です。しかし、当時は一度失態を犯してしまっただけで、一生笑い物にされてもおかしくはないほどの行為だったのです。
ただ一方で、遊女のおならをレアな光景として歓迎する客も少なからず存在しました。あまりいい趣味だとは思えませんが、普段恥じらうことのない遊女の数少ない赤面シーンだと思えば、たしかに客が待ち望んだ意味もわかります。
このように、遊女は並々ならぬ苦労とともに、その地位に居座っていました。当時、遊女が誇り高き職業であったことを、改めて実感できます。
「どのような女性が美人か」は、現代と江戸時代で異なった
現在でも同じですが、風俗遊びをするときは「美人な女性とエッチをしたい」とどの男性であっても考えます。どの時代でも美人は注目されますが、「どのような女性が美人と言われたのか」は現代と江戸時代で異なります。
江戸時代には多くの浮世絵(うきよえ:江戸時代の絵画のジャンルのひとつ)や美人画(びじんが:美しい女性を描いた絵)が描かれました。そこに描かれる女性からは、当時の「美人の女性の特徴」が分かります。
江戸時代の美人な女性の特徴
江戸時代の美人画に描かれた女性は、江戸時代の男性が「どのような人を美人と考えたか」を知るのに役立ちます。美人画は現代でいう「アイドルのグラビア」のようなものだったためです。
美人画を多く描いた絵師(えし:絵を描く仕事をする人)に「喜多川歌麿(きたがわうたまろ)」という人物がいます。喜多川歌麿はさまざまな女性の美人画を描きましたが、描かれた女性には共通する部分がありました。
共通していたのは、まずは「面長(顔が少し長めであること)な顔」です。現代では顔の縦と横の長さが同じくらいの顔が好まれやすいですが、江戸時代の美人は縦が少し長めでした。
そして「おちょぼ口」と呼ばれる小さな口、「色白の肌」、「きれいな黒髪」も特徴でした。美人画に描かれた女性はどの人もこれらのポイントを満たしており、当時の男性が魅力を感じたのです。
現代では上記のようなポイントを重視する人は少ないです。江戸時代から現代に至るまでに、男性の美人に対する感覚が変化していることが分かります。
江戸時代には巨乳な女性は好まれなかった
現代と江戸時代で大きく異なるのが、いわゆる「巨乳な女性」に対する感覚です。
現代では巨乳女性を好む男性は多いです。しかし、江戸時代の男性は巨乳であることにあまり興味を持たず、「巨乳だから魅力的な女性」とは考えませんでした。当時の男性は女性の胸を「子供に乳を与えるためのパーツ」として考えており、性的興奮を覚えなかったのです。
江戸時代の女性はお洒落として着物を着ていました。胸が大きいと女性が着物を着たときにアンバランスに見えてしまうことも、巨乳の女性が好まれない理由のひとつでした。
ただ、男性が女性の乳首を刺激すると、女性は性的な興奮を感じました。江戸時代の女性がセックスで男性から責められるときには、女性器を刺激されるのが一般的でした。そのため乳房や乳首に刺激を与えられることは「意外な責め方」として、女性は快感を覚えることがありました。
江戸時代に残された本から分かる美人な女性
江戸時代に残された書籍として有名なものに「好色一代女(こうしょくいちだいおんな)」という作品があります。井原西鶴(いはらさいかく)という人物によって執筆された、「上流階級の家に生まれた女性が、売春生活に転落する様子」を描いた作品です。
好色一代女は現代でいう小説のような内容のため、細かく描写する必要がありました。そのため、美人な女性についても細かく記述されています。
井原西鶴が好色一代女で描いた美人な女性は、「小柄な体型で顔は丸顔である。顔の色は桜のような薄いピンク色で目は大きい。腰は引き締まっていてお尻はふくよかな雰囲気がある」という外見でした。
丸顔や桜のような肌の色など、前述の美人画で描かれた女性とは異なる部分があります。ただ、好色一代女で描かれた女性は、井原西鶴の好みが反映されていたと考えられています。
また、ほかにも「好色訓蒙図彙(こうしょくきんもうずい)」という本では「面長で背が高い女性が美人」という記述があります。好色一代女で描かれている小柄な女性に対して、好色訓蒙図彙では「背が高い女性が良い」とされています。背の高さの好みは、男性によってそれぞれであったと考えられます。
このように、江戸時代の男性にとっての美人な女性は「面長・色白・口が小さい・黒髪」などの特徴がありました。背丈などの男性によって好みが分かれる部分もありましたが、「美人への感覚」は現代とは異なるものがあったのです。
巨根の男性に遊女はどのように対応したのか
美しさだけでなく努力をしていた遊女ですが、これら遊女であっても大変なことは多いです。江戸時代にはセックスの様子を描いた「春画(しゅんが)」という絵がありました。春画では男性器が描かれることがありましたが、多くの場合、男性器は大きく描かれていました。
実際にはかつての男性の性器は、春画で描かれるほどの大きさではありませんでした。しかしときには「巨根」といえるサイズの男性器を持つ人がいました。こうした男性は、当時の遊女を困らせました。
遊女は巨根の男性に「挿入は無理」と伝えていた
遊女は巨根の男性に「大きすぎて自分の性器には挿入できません。ごめんなさい」と謝っていました。遊女は日々たくさんの男性客を相手にしていたため、女性器が傷つくことを恐れました。そのため、巨根の男性の性器を無理に挿入することはできなかったのです。
このとき、遊女は男性器の挿入を試した後に断るようにしていました。遊女が男性器を見ただけで「挿入できない」と断ると、男性客が機嫌を損ねてしまう可能性があったためです。
遊女の仕事はサービス業といえます。そのため遊女は男性客への配慮を欠かさなかったのです。
遊女は「手コキ」で巨根の男性をイカせていた
挿入できない巨根の男性に対して遊女が行ったのが「手コキ」です。手コキは現在でも広く行われているテクニックで、「女性が男性器を手に持ち、上下に動かして刺激する方法」です。手コキは江戸時代から存在していたのです。
現代では手コキをする際は、女性が男性の横、もしくは前に座って行います。しかし江戸時代の遊女はプレイの部屋にあった布団を積み上げて台にして、そこに男性を座らせました。そして、男性の前に座って手コキを行いました。
このように男性器がちょうど女性の顔のあたりの高さにくるようにすることで、遊女はよりペニスを刺激しやすかったのです。
遊女は両手を使って手コキを行いました。片方の手で睾丸とその周辺をもみほぐし、もう片方の手で男性器を握って手コキをしました。男性が興奮してさらに男性器が固くなったら、遊女は刺激していた手の人差し指と親指で輪を作り、男性器の先端を集中的に責めました。これが男性にさらなる快感をもたらしたのです。
遊女が男性を射精まで導いたあとは、女性は男性の性液を自分の体に塗っていました。こうすることで、男性の満足度がより高まったのです。
フェラチオで男性をイカせる場合もあった
遊女は現代でいう「フェラチオ」で巨根の男性を射精させる場合もありました。フェラチオは「女性が男性器を口に含み、舐めることで刺激を与える行為」を指します。遊女は男性器が巨根であっても口に含むことはできたため、フェラチオは可能だったのです。
江戸時代のフェラチオは「尺八(しゃくはち)」や「千鳥の曲(ちどりのきょく)」と呼ばれました。
遊女は男性器を口に含む前に、まずは睾丸を揉んで刺激してから尺八を行いました。さらに、男性器の先端と、先端の手前のくびれ部分を入念に舐めるようにして刺激していました。こうすることで、よりフェラチオの快感が増したのです。
また、現代のフェラチオでは男性は動かず、女性が顔を動かすことで男性器に刺激を与えるのが一般的です。しかし江戸時代の尺八では、遊女は男性器を口に含んでも顔を動かしませんでした。その代わりに男性が腰を使って男性器を動かして、刺激を楽しみました。男性は腰を振ることで「自分が女性を責めている感覚」を得ることができたのです。
こうした男性の腰の動きに合わせて、遊女は唇での男性器の締め付け具合を調節しました。主な目的は「男性に気持ち良い刺激を与えるため」でしたが、「遊女の口から男性器が抜けてしまうのを防ぐため」でもありました。
このように、江戸時代にも巨根の男性はいました。そして遊女は挿入ができないながらも男性に満足してもらうために、手コキやフェラチオを行っていました。気持ちよい快感が得られるよう、これらのテクニックを磨いていたのです。
かつての遊女の脅威だった性病「梅毒」
江戸時代の遊女の悩みはそれだけではありません。特に遊女にとっては、性病は脅威でした。
江戸時代にはコンドームがなく、日々たくさんの男性客と性行為を行っていた遊女(ゆうじょ)は、性病になることがよくありました。性病の中でも特に多くの女性が患ったのが「梅毒(ばいどく)」です。
梅毒は「脅威」といわれるほど広まった性病で、遊女は梅毒を患うと長い闘病生活を強いられることになりました。
梅毒の症状
梅毒の症状は「三週三ヶ月三年」といわれました。これは、約3週間後、3ヶ月後、3年後で、梅毒の症状が変化したことに由来しています。
梅毒に感染してから1~3週間後は、梅毒に感染した部分に、腫れ物が生じます。痛みやかゆみをともなわないため、発症を見逃してしまう女性が多くいました。しかし、腫れ物は破れることがあり、潰瘍(かいよう:体の一部が崩れることでできる傷)に発展しました。
3ヶ月ほど経つと、顔や体に発疹(ほっしん:皮膚に生じる赤い斑点)が生じます。発熱や頭痛も生じるようになり、梅毒の症状が本格化します。さらに髪の毛が抜け落ちることがあり、見た目を大切にする遊女にとって大変な症状でした。
3年後になると、腫れがさらにひどくなり、ゴム腫(ごむしゅ)と呼ばれる「弾力がある腫れ」が生じました。
梅毒の症状は人によって個人差がありました。2~3ヶ月は重い症状が続くものの、その後は回復する女性もいました。
江戸時代の遊女は梅毒に悩まされていた
江戸時代の遊女は借金を負って仕事をしている人がたくさんいました。そのため、体調不良になっても店から強制的に働かされ、仕事を休めないことがありました。そのため梅毒に感染しても、見た目に影響がなければ続けて働くことがありました。
しかし、梅毒に感染した状態を放置していると、その症状は進行してしまいます。そして、遊女は重度の症状を発症した時点で遊女屋(ゆうじょや:風俗店のこと)を追い出され、闘病生活をすることになりました。
江戸の有名な遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)である吉原では、梅毒に感染した女性に対して「鳥屋(とや)につく」という言葉が使われました。
鳥の一種である鷹(たか)は、夏に羽が抜け落ちて、冬毛に生え変わります。このときに鷹は鳥屋という鳥かごにこもりました。遊女の毛が梅毒によって抜け落ちてしまう様子が、鷹が鳥屋にこもる様子に似ていたことから、上記のように呼ばれるようになりました。
鷹が冬毛に生え変わるように、梅毒から復帰した遊女は「一人前になった」と認められていました。しかし中には命を落としてしまう女性や、見た目が崩れてしまったことから吉原に戻れなかった人さえいました。
外国人医師による梅毒検査が行われた
梅毒は江戸の街だけでなく、日本全国に広がっていました。例えば1860年、ロシアから日本にポサドニック号という軍艦がやってきました。現在の長崎県にあたる「対馬(つしま)」という地域を占領することが目的でした。
このとき、ポサドニック号に乗船していた医師が「遊女の梅毒の検査」を行いました。ポサドニック号の乗組員たちが遊女と性行為を行い、梅毒が感染することを恐れたためです。
遊女たちは検査に抵抗を感じていました。検査では、遊女は外国人の医師の前で裸になり、女性器を奥まで確認されたためです。検査を怖がった遊女の間では、「クリトリスを取られてしまう」という噂が広がっていたほどです。
当時、梅毒の蔓延は日本の大きな問題となっていました。それまで江戸幕府は、性病の検査を行っていませんでした。しかし上記のポサドニック号の医師による梅毒検査を発端として、政府は「検梅(けんばい)」と呼ばれる梅毒の検査を明治7年から行うようになりました。
このように江戸時代、梅毒は「症状が非常に重い性病」として問題となっていました。現代では性病に感染する可能性は低くなっています。江戸時代にロシアの軍艦が訪れて性病検査が行われたことは、日本の性病の歴史を大きく変えたといえます。