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東京にある吉原は300年以上の歴史を持つ遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)です。吉原の歴史は江戸時代(1603~1867年)から始まりましたが、その長年の歴史の中で風俗嬢である遊女の服装や化粧の仕方には変化がありました。

300年という長い期間の中では、遊女の衣装や化粧の変化をはっきりと感じることができます。ここでは、遊女の衣装・化粧について紹介します。

江戸の経済成長とともに、遊女の衣装は華やかになった

遊女の衣装は時が経つにつれて、華やかになりました

吉原は1617年に誕生しました。政府が吉原の建設を決定したとき、当時の風俗店である妓楼(ぎろう)の経営者に条件が出されました。そのひとつに、「遊女の服装は質素なものにしなければならない」というものがありました。

この条件のため、初期の吉原における遊女は庶民の女性と変わらない服装で、決して華やかな雰囲気はありませんでした。遊女は階級が分かれており、上級と下級がありました。上級の中の最上位の遊女であっても、いわゆる「地味な服装」だったのです。

しかし、その後吉原は場所の移転を政府から命じられます。現在の浅草寺の付近に移転することになり、移転後からは少しずつ遊女の衣装が変化し始めました。移転後も初期のころは遊女の服装は地味でしたが、江戸の経済が成長し始めた元禄(げんろく:1688~1704年)のころになると、遊女は華やかな見た目になりました。

上級遊女である「花魁(おいらん)」の服装

華やかな服装をするようになったのは、遊女の中でも上級の遊女でした。上級遊女のことを花魁(おいらん)と呼びました。

花魁は巻いていた帯の幅が広く、金襴(きんらん)や緞子(どんす)という高価な打ち掛け(羽織もの)を着ていました。

金襴は細断した金を絹糸に巻き付け、模様に仕上げた織物です。緞子は光沢があり、どっしりとした高級感が感じられる織物です。どちらも非常に見た目が華やかで、上級遊女の証明ともいえるものでした。

また、遊女は帯の結び方にも特徴がありました。遊女ではない一般の女性は帯を後ろで結ぶのに対して、遊女は前で結んでいました。一般の女性でも帯を前で結ぶ人はいましたが、徐々に後ろで結ぶ人が多くなり、「前で結ぶのは遊女」という認識となりました。

もうひとつ遊女の服装で特徴的だったのが「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれた腰巻きです。一般の女性が巻く腰巻きの色は、白か薄い藍色でした。これに対して遊女の湯文字は緋色(明るい赤色)でした。吉原の移転前は遊女の湯文字も一般女性と同じ白でしたが、時代とともに緋色になりました。

遊女の化粧は時代の最先端だった

衣装だけでなく、化粧の仕方にも遊女はこだわりました。

遊女は著名な絵師(えし:画家のこと)が描く浮世絵(うきよえ:江戸時代の絵画のジャンルのひとつ)や錦絵(にしきえ:木版多色刷りで描かれた浮世絵)のモチーフになることがよくありました。そのため、より見栄えのする化粧にこだわったのです。

時代とともに豪華になった衣装の雰囲気に負けないためには、遊女は化粧を厚くしてバランスを整える必要がありました

そのため、白粉(おしろい:肌の色を白く見せるための粉)をたくさん塗り、眉毛には眉墨(まゆずみ)という墨を塗り、引き締まった印象に仕上げました。さらに唇には濃い紅色をつけて、はっきりと印象深い化粧を施しました。

こうした遊女の化粧の仕方は、一般女性の憧れとなりました。その中でも特に注目されたのが「笹色紅(ささいろべに)」という化粧の仕方です。下唇だけを玉虫色に発色させる方法で、紅を何度も重ね塗りすることで行うことができました。

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紅は高級品だったため、一般女性は笹色紅をしたくてもできなかったのです。笹色紅は遊女の「優雅でお洒落な佇まい」を象徴する化粧だったのです。一般女性は笹色紅のかわりに下地として墨を下唇に塗り、その上から紅を塗ることで笹色紅に似た見た目に仕上げていました。

このように、江戸時代の遊女はいわゆる「ファッションリーダー」のような存在でした。男性だけでなく、女性も遊女の見た目に憧れたのです。

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