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吉原は江戸時代(1603~1867年)から遊郭(ゆうかく:現代でいう風俗街)として大きく栄えており、定期的にイベントが開催されていました。普段からにぎわっていた吉原ですが、イベントの日はさらに盛り上がりました。

ここでは吉原の代表的なイベントとや祝いの日、花魁道中など、さまざまな出来事について紹介していきます。

親しまれた遊女をとむらう「玉菊灯籠(たまぎくとうろう)」

吉原の遊女に「玉菊(たまぎく)」という女性がいました。また、玉菊は太夫(たゆう:上級の芸人)でもありました。才色兼備として多くの男性に親しまれ、「河東節(かわとうぶし)」という浄瑠璃(じょうるり:琵琶(びわ)という楽器などを用いて演奏された音楽の一種)を得意としていました。

玉菊は惜しまれながらも25歳という若さで亡くなりました。当時は享保十一年(1726年)でした。人柄が良かったことから引手茶屋で働いていた人たちが集まり、亡くなったときに灯籠(とうろう:石や金属を使って作られた装飾用の照明器具)を飾って玉菊の霊をとむらいました。これが「玉菊灯篭」です。

玉菊灯篭の様子が非常にきれいだったことから、吉原での毎年恒例の行事となりました。玉菊灯籠の日には引手茶屋は店の前に灯籠を吊るしました。

妓楼の祝い日「紋日(もんぴ)」

紋日(もんぴ)」は吉原のお祝いの日です。現代ではお祝いの日には店でセールなどが行われますが、江戸時代の吉原は逆でした。紋日には妓楼の遊び代である「揚代(あげだい)」が倍になりました。

紋日を知っていた男性客は別の日に登楼(とうろう:妓楼に行くこと)しましたが、知らずに訪れた男性客は非常に大きな金額を支払うことになりました。

また、男性客だけでなく、遊女にとっても紋日は大変でした。紋日に男性客がつかない遊女は揚代を自分で支払う必要があったのです。そのため遊女は紋日が近づいてくると馴染みの男性客に営業活動を行い、「紋日の日に来てほしい」と伝えていました。

妓楼にとって紋日は利益が大きくなるため、紋日は徐々に増やされました。多いときには、ひと月のうち3分の1が紋日となっていることもありました。

大通りに植えられた「春の夜桜」

春になると吉原の街には桜の木が運び込まれて植えられました。吉原には仲の町(なかのちょう)という大通りがあります。吉原の中央を貫いており、両脇には江戸時代の風俗店である妓楼(ぎろう)や風俗案内所にあたる引手茶屋(ひきてぢゃや)という店が建ち並んでいました。

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仲の町は吉原で最もにぎわっており、「桜を植えるのに最適」と考えられていました。

また、桜を植える際には「引手茶屋の2階から眺めるのにちょうど良い高さ」で植えられました。これは、引手茶屋の2階で宴や歓談が行われることがあったためです。

男性客は妓楼に向かう前に引手茶屋に立ち寄り、桜を眺めながら食事や酒を楽しむことができました。そして、男性はその後に妓楼に向かい、遊女との性的行為を行いました。

また、桜は当時の3月末ごろには全て散ってしまいましたが、その前に桜の木は全て抜かれて再度吉原から運び出されました。

吉原の街を練り歩く「俄(にわか)」

俄(にわか)」は定期的に吉原の街中で行われていた即興(アドリブ)による芝居です。参加する人たちはそれぞれ個性的な趣向を凝らして、吉原の仲の町を練り歩きました

吉原には、妓楼や引手茶屋で宴を行う際に芸を披露する「幇間(ほうかん)」という人たちがいます。また、さまざまな音楽の演奏や舞踊を行う「芸者(げいしゃ)」もいます。これら幇間や芸者が中心となり、吉原の街を盛り上げました。

幇間や芸者が車のついた舞台を引いて回り、舞台の上で芸や舞踊などを行いました。また、妓楼や引手茶屋の奉公人(ほうこうにん:雇われている人)も参加することがありました。

俄はもともと、芝居好きな妓楼の亭主や引手茶屋の主人が集まって始めたものでした。このときは俄狂言(にわかきょうげん)という即興の劇を行いながら仲の町を歩きました。これが吉原の人々に好評だったため、俄という名称で恒例イベントになったのです。

吉原で行われた花魁道中(おいらんどうちゅう)

吉原にはこのようにさまざまなイベントが行われており、にぎわっていました。まさに「江戸時代のテーマパーク」と呼ぶのにふさわしい街だったのです。

吉原は街全体に華やかな雰囲気があり、多くの人でにぎわっていました。その中でもひときわ輝いていたのが花魁道中(おいらんどうちゅう)という「遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)たちの行進」です。遊女が道を歩く姿に多くの男性が魅了され、吉原の象徴ともいえる風景でした。

花魁道中はもともと遊女の引手茶屋(ひきてぢゃや)への行進だった

男性客は江戸時代の風俗店である妓楼(ぎろう)を利用する際、引手茶屋(ひきてぢゃや)という店に前もって立ち寄ることがありました。引手茶屋は現代でいう「風俗案内所」で、男性客に最適な妓楼を紹介していたのです。

引手茶屋からの男性客の紹介は、妓楼にとって非常にありがたいものでした。引手茶屋を利用する男性は妓楼から優遇され、妓楼の亭主や引手茶屋の主人・奉公人(ほうこうにん:働いている人)からもてなしを受けました。

男性客は引手茶屋に行った際、そこからすぐに妓楼に向かわずに引手茶屋で宴を行うことがありました。そのときには引手茶屋の奉公人が妓楼に遊女を呼びに行き、引手茶屋での宴に連れてきました。

遊女は上級と下級の遊女がいて、上級遊女を「花魁(おいらん)」と呼びます。引手茶屋に呼ばれるのは花魁でした。ただ、花魁は宴の席をさらに華やかにするため、「新造(しんぞう)」と呼ばれる下級遊女や「禿(かむろ)」と呼ばれる遊女の見習いの少女を引き連れて引手茶屋に行きました。

この際の行進が「花魁道中」の始まりでした。何人もの遊女が華やかな姿で連れ立って歩く様子は非常に魅力的で、吉原の街を歩いている男性はその姿に見とれたのです。

花魁道中は徐々にパレードとしての意味合いが強くなった

「男性客が待つ引手茶屋に向かう遊女の行進」として始まった花魁道中ですが、徐々にその形態は変化しました。

多くの人に見てもらえるように「吉原の仲の町(なかのちょう)という大通りを練り歩くパレード」として行われることが多くなり、遊女の衣装もさらに豪華なものになりました。その様子はほかの地域の風俗街と大きく異なり、吉原を象徴する行事となりました。

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パレードとして行われるようになってからは、上級遊女の中でも最高位にあたる「呼出し昼三(よびだしちゅうさん)」という階級の遊女が花魁道中の中心となって行進しました。

昼三という名称は、昼に遊んでも三分(さんぶ:現代の7万5千円ほどにあたる)の揚代(あげだい:遊女と遊ぶ代金)がかかることに由来していました。

呼出し昼三は新造や禿を従えて吉原の街を練り歩き、引手茶屋で腰を下ろして優雅なしぐさで煙草を吸いました。その様子を「仲の町待ち(なかのちょうまち)」や「仲の町張り(なかのちょうばり)」と呼びました。引手茶屋は仲の町に多くあったことからこう呼ばれました。

遊女の花魁道中での歩き方

花魁道中の際、行進する遊女は歩き方に気をつけていました。「外八文字(そとはちもんじ)」という歩き方で、股を外に開いて八の字を描くように歩くことに名称が由来しています。

もともとは、京都の遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)が発祥の「内八文字(うちはちもんじ)」という歩き方が遊女の主流となっていました。これに対して吉原の「勝山(かつやま)」という遊女が外八文字にあたる歩き方をしてから、「吉原の遊女ならではの歩き方」として外八文字が定番になりました。

遊女は華やかな衣装を着て花魁道中を行いましたが、着物だけでなく、さまざまな豪華な装飾品を数多く身に付けていました。そのためかなりの重量があり、衣装を着た状態で、しかも外八文字できれいに歩くためには日ごろからの訓練が必要でした。

遊女は新造のころから花魁などに指導をしてもらい、上手く外八文字の歩き方ができるよう稽古をしていたのです。

花魁道中は吉原を代表する風景でしたが、その内容は時とともに変化していきました。ただ、花魁道中が多くの男性を魅了するものであることには変わりありませんでした。

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