江戸時代(1603~1867年)の遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)は多くの男性客と性的プレイを行っていました。男性の中には女性に好意を持ち、「女性の気持ちを確かめたい」と考える人が多くいました。そのため遊女はさまざまな形で男性に愛情を示していました。
ただ、遊女が男性客に示す愛情は本気であることもあれば、仕事として形式的に行っていることもありました。ここでは、遊女の男性への愛情の示し方を紹介します。
起請文(きしょうもん)
男性への愛情を示すために遊女が行ったのが起請文(きしょうもん)という文書を書くことです。遊女は男性客への愛情を示し、ほかの男性に気持ちが移らないことを誓うために起請文を書きました。
そして、「起請文に書いた誓いを破るときには、神仏からどんな罰を受けてもかまわない」と考えていました。
起請文は江戸時代の落語などの題材になることがありました。ただ、「三枚起請(さんまいきしょう)」という落語では、実は起請文があまり意味のない文書であったことが描かれています。男性への誓いを文書にしたからといって、信憑性がなく、法的な拘束力もありませんでした。
遊女は自分の本気の気持ちを示すために、指を少し切って血を出し、それを誓いとして起請文に血判(けっぱん:血液を印鑑の代わりにすること)を押していました。しかし、それもいわば「演技」として行っており、あまり意味のないものでした。
遊女は多くの男性客に起請文を書いていました。そして、そのたびに「本当に好きになったのはあなただけ」という言葉を繰り返していました。男性客は起請文に喜び、中には遊女に書いてもらった起請文を大切に保管する人もいました。
彫物(ほりもの)
彫物(ほりもの)は「入れ墨」のことを指します。遊女は二の腕に好意を持った男性の名前を彫物として入れていました。起請文と同じく、男性への想いが変わらないことを示すために行われました。たとえば男性の名前が藤兵衛(ふじべえ)の場合、「フジ命」などのように彫物をしました。
しかし、遊女は彫物をしても別の男性に好意を持つことは多くありました。その場合、今掘られている彫物を消して、新たな男性の名前の彫物をすることになります。
彫物を消す際には灸(きゅう:よもぎの葉などに火をつけて、その刺激で病気を治す治療方法)が用いられました。
灸で彫物を焼く場合はやけどをすることが多く、遊女の肌にはひどい火傷の跡が残ってしまいました。そのため、彫物は遊女の仕事に支障が出る場合がありました。
指切り(ゆびきり)
指切りは「女性が男性への本気の気持ちを示すために、小指の第一関節から先を切り落とすこと」を指します。江戸時代に発刊された遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)の案内書「色道大鏡(しきどうおおかがみ)」では、「指を切断しても適切な処置をすれば指はつながる」など、指切りの方法が詳細に解説されています。
しかし、本当に指切りが行われていたかは疑問が持たれています。理由は2つあり、「好きな女性が傷つくことを望む男性客は少ない」ということと、「妓楼が許すはずがない」ということです。
指を切断するのは当然ですが非常に強い痛みが生じます。自分が好きな遊女が苦痛を感じる姿を男性客が喜ぶとは考えられません。また、指切りをすれば女性の見た目が悪くなり、その遊女は男性客から敬遠されやすくなります。妓楼は遊女に「多くの男性客を取ってほしい」と考えています。そのため、見た目が悪くなる指切りを見過ごすはずがありません。
吉原や江戸時代に詳しい専門家は「指切りが行われていた記録は残っているものの、実際に行われていた可能性は低い」と見る人が多いです。そのため、指切りはいわゆる「都市伝説」として考えられています。
遊女の性的プレイのテクニック
遊女は男性客に対してさまざまな形で愛情表現を行っていました。起請文は比較的行いやすいものの彫物や指切りは非常にストイックな行為です。これらについては、現代の風俗との違いを感じることができます。
さて、遊女として人気の女性になるためには、「ルックス」「プレイの技術」」喜怒哀楽」が重要といわれていました。ルックスを大きく変化させるのは難しいですが、プレイの技術や喜怒哀楽は訓練により改善することができます。そのため遊女は積極的にこれらを練習しました。
プレイが上手い遊女は「床上手(とこじょうず)」と呼ばれた
遊女のプレイ技術は、妓楼(ぎろう:現代でいう風俗店)の亭主の女房や遣手(やりて)と呼ばれる遊女の指導役の女性、先輩遊女によって教えられました。
特に遣手は遊女に対する指導の中心的な役割を担っていました。遣手の女性も遊女の経験がある人であったため、自分の経験を活かした指導を行っていました。
指導は手取り足取り行われ、遊女は性的プレイの「秘伝」や「秘技」といった技術を習得していました。この技術は吉原ならではのもので、特に性的技術が上手い吉原の遊女は「床上手(とこじょうず)」と呼ばれました。
江戸時代の戯作(げさく:江戸の俗文学)である「色道諸分難波鉦(しきどうしょわけなにわどら)」という作品では、遊女が「肛門を締めることで膣の締まりを良くする技術」を体得していたことが分かります。吉原の遊女ならではの技術で、その訓練は妓楼で行われていたことがうかがえます。
遊女の中には、幼いころから遊女の見習いである禿(かむろ)として過ごしてきた人が多くいました。女性は幼いころから性的プレイの技術を習得することで、いわゆる「名器」に仕立てられていたのです。
遊女が感じるのは恥である
遊女は男性を気持ち良くさせるさまざまな手法を体得していました。その一方で、「遊女自身が感じるのは恥である」と妓楼に教え込まれていました。それは、遊女としてのプレイは「仕事」であるためです。
遊女は1日で多くの男性と性的プレイを行います。プレイごとに本気で感じていると、体力を大きく消耗してしまいます。プロとして仕事をするには、感じてはいけなかったのです。妓楼は「感じるのは恥」と何度も伝えることで、遊女を心理的に不感症(性的な刺激で興奮しないこと)にしていたのです。
ただ、感じてはいけないものの、仕事をこなすように淡々とプレイをしていると、男性客が冷めてしまいます。
そのため、遊女は「感じているふり」を非常に得意としていました。まさに「迫真の演技」ともいえるような反応をして、男性客を魅了しました。「遊女のよがり声は大きく、色っぽい」として、男性の間で評判となっていました。
遊女の仕事は昭和の時代も続きますが、「遊女が感じてはいけない」という教えは昭和の吉原にも受け継がれました。それほど大切な教えだったのです。
遊女の喜怒哀楽のテクニック
遊女は性的プレイのテクニックのほかにも、喜怒哀楽を上手く使いこなしていました。手練手管(てれんてくだ)と呼ばれており、遊女は泣いたり、切ない表情をしたり、ときには笑顔で甘えた顔になったりと、さまざまな表情を使い分けました。
プレイのテクニックも豊富ですが、手練手管も「奥義」といわれるような手法がありました。先輩遊女らが中心となり、若い遊女に技術を教え込んでいました。
手練手管の手法のひとつとして「効果的な嘘のつきかた」がありました。遊女が上手く嘘をつくことで男性客の心は踊り、ときには狂喜することもありました。そして、遊女にのめりこむ男性は非常に多くいました。まさに、男性は吉原の遊女に対して熱を上げていたのです。
このように、吉原の遊女は習得したさまざまなテクニックを駆使して男性客の相手をしていました。吉原はまさに日本最大の遊郭として、遊女の技術の高さもトップクラスだったのです。