江戸時代(1603~1867年)における吉原の風俗店、妓楼(ぎろう)に男性が行くことを登楼(とうろう)といいました。登楼の仕方は大きく分けて2通りあり、「直接妓楼に行く方法」と「引手茶屋(ひきてぢゃや)という、現代でいう風俗案内所を通して妓楼に行く方法」がありました。
ここでは2つの登楼の仕方、さらには妓楼(ぎろう)の構造について紹介します。
直接に妓楼に向かう「直きづけ(じきづけ)」
男性客が妓楼に直接向かうことを「直きづけ(じきづけ)」と呼びました。直きづけにも2通りの場合がありました。
ひとつは「利用する妓楼が初めての場合」です。
妓楼には遊女(ゆうじょ:現代の風俗嬢)を眺めることができる「張見世(はりみせ)」という部屋があります。通りに面した部屋で壁が格子になっており、張見世の中には遊女がいました。
男性客は遊女を眺めて好みの女性を見つけたら、若い者(わかいもの)と呼ばれる妓楼の男性の奉公人(ほうこうにん:従業員)に声をかけました。
若い者に声をかけると、男性客は若い者から遊女の名前を伝えられました。そして、「おあがりなさいませ」と挨拶してくれて、男性客を妓楼に招き入れてくれました。
直きづけのもうひとつのケースは「以前に妓楼を利用したことがあり、馴染みのお客様となっている場合」です。
この場合、男性客は若い者に声をかけずにそのまま妓楼に入りました。すると若い者が顔を覚えていてくれており、「いらっしゃいませ。すぐにいつもの子に声をかけます」といって馴染みの遊女の手配をしてくれました。
張見世の開始時間
妓楼には「昼見世(ひるみせ)」と「夜見世(よみせ)」というように、昼間と夜で営業時間が分けられていました。昼見世は現代でいう12時(正午)ごろから営業開始となり、張見世は14時ごろに始まりました。夜見世は日没から営業開始でしたが、張見世は夜見世の営業開始と同時に始まりました。
妓楼には内所(ないしょ)と呼ばれる「妓楼の亭主が待機している部屋」があります。妓楼の男性スタッフである「若い者(わかいもの)」がこの部屋の棚にかけられている鈴を鳴らすと同時に張見世が開始され、遊女たちは部屋に移動します。
張見世には「妓楼で遊びたい」と考える男性客が訪れたほか、見物客も多くいました。吉原には田舎から来る人も多く、妓楼で遊ぶお金がない人は張見世で遊女を眺めて楽しんでいました。
張見世の様子
張見世での着座の順番
張見世では遊女が座って待機していましたが、その座り方には順番がありました。遊女には階級があり、上級遊女と下級遊女がいました。妓楼の中で最も上級の遊女が中央に座りました。最高位の遊女を「お職(おしょく)」と呼びます。
そして、中央のお職の左右に階級順でほかの遊女が座りました。一番端には「振袖新造(ふりそでしんぞう)」という下級遊女が座りました。また、上級遊女が座る席には毛氈(もうせん)という動物の毛を繊維状にして敷物に加工したものが置かれていました。
上級遊女はさまざまな面で妓楼から優遇されていました。張見世での待機中も、下級遊女に比べて優遇されていたのです。
また、それぞれの遊女の前には煙草が置かれています。これは遊女が吸うものではありません。男性客が格子から張見世をのぞきますが、その際に遊女が格子から煙草を渡すことで、男性客は一服することができました。煙草は「遊女が男性客の気を引くための道具」として用いられていました。
遊女の張見世での時間の過ごし方
遊女は男性客が張見世をのぞいていれば、その相手をしましたが、昼間の時間帯は男性がいない時間がありました。その際には遊女は手持ち無沙汰になってしまうため、遊女同士でカルタなどをして遊ぶことがありました。
また、遊女が男性客と手紙のやり取りをすることもあります。男性客は格子を通して手紙を遊女に渡し、自分の想いを伝えていました。また、男性客が遊女に手紙を直接手渡す場合もあれば、文使い(ふみつかい)という「手紙のやり取りの仲介役」が渡してくれることもあります。
男性客は書いた手紙を文使いに渡し、文使いはこれを張見世の格子から遊女に渡します。さらに、遊女が手紙を文使いに渡し、男性客に届けることもありました。
昼と夜の張見世の違い
昼と夜では、張見世の雰囲気が大きく異なります。夜見世になると周りが暗くなるため、張見世の中には大きな行灯(あんどん:江戸時代の照明器具)が置かれました。妓楼はときどき行灯に油を継ぎ足すことで明るさを保っていました。
行灯の薄明かりの中に居並ぶ白粉(おしろい:化粧)を塗った遊女たちは、男性客に対してとても色っぽく映りました。そのため、食い入るように遊女を見つめる男性もいました。
また、にぎやかな雰囲気を演出するために、張見世の中で振袖新造などによって三味線(しゃみせん:楽器のひとつ)が演奏されていました。
このように、張見世は妓楼の中でも大切な役割を担っている部屋でした。遊女と男性客の接点は、張見世が最初となることも多かったのです。
引手茶屋を通す場合
男性客に妓楼を紹介してくれる引手茶屋を利用する場合、男性客はまずは引手茶屋に向かいます。この場合も2通りに分かれました。
まずは「引手茶屋が男性客を案内して登楼する場合」です。
引手茶屋は2階建てとなっており、男性客は入店すると2階に案内されました。女中(じょちゅう:雑用をする女性)がお茶と煙草を出してくれるので、男性客はそこで一服をします。そして、少し時間が経つと引手茶屋の亭主か女将が男性に挨拶をするためにきました。
引手茶屋の利用が初めての場合、亭主か女将が男性客の好みを聞いてくれました。その際には「どのような女性が好みなのか」についてだけでなく、遊び方・使える予算なども聞きました。
これらの情報から、引手茶屋は男性客に勧めるべき最適な妓楼を考える必要がありました。ここは引手茶屋の腕の見せどころでした。紹介する妓楼が決まったら、引手茶屋の奉公人が妓楼に走り、女性の手配をしてくれました。
この間に女中が酒やしいたけの煮物、かまぼこなどを持ってきてくれて、男性客はお酒と食事を楽しむことができました。「妓楼に気持ち良く向かえるように」という引手茶屋の配慮です。
引手茶屋の奉公人による遊女の手配が終わり「そろそろ良いタイミングだ」となったら、男性客は妓楼に向かいました。男性客によっては「実際に遊女を見て遊び相手を決めたい」という人もいたため、引手茶屋の亭主や女将が男性客と一緒に妓楼の張見世に行くこともありました。
引手茶屋に遊女を呼ぶ豪華サービス
また、引手茶屋を通して妓楼を利用する場合のふたつめとして「妓楼に行く前に、引手茶屋に遊女を呼ぶ場合」もありました。これが最も贅沢な遊び方でした。
この場合、引手茶屋に男性客が好みの女性を伝えると、引手茶屋の奉公人が妓楼に遊女を呼びに走ります。そして、遊女は準備をして引手茶屋に向かいます。妓楼にとって引手茶屋は「お客様を紹介してくれるありがたい存在」です。そのため、引手茶屋からの要請にはできる限り応じていました。
遊女は一人で引手茶屋に向かうこともありましたが、多くの場合は「新造(しんぞう)」と呼ばれる下級遊女や「禿(かむろ)」と呼ばれる遊女として修行中の少女も一緒に引き連れて向かいました。
この様子が非常に華やかだったことから、「花魁道中(おいらんどうちゅう)」と呼ばれました。花魁(おいらん)は上級遊女のことを指します。
遊女の一行が到着すると、しばらく歓談が行われました。そして、男性客と遊女の一行はあらためて妓楼に向かいました。
向かう際には「男性客」「引手茶屋の女将と若い者」「遊女の一行」「芸者」なども加わり、とてもにぎやかな雰囲気となっていました。引手茶屋に遊女を呼んでから妓楼に向かう場合の費用は、現代に換算すると100万円ほどで、まさに「豪遊」といえる遊び方でした。
引手茶屋のさまざまなサービス
引手茶屋を利用する場合は、男性客が妓楼に着いたあとも引手茶屋がさまざまなサービスを行ってくれました。妓楼では女性との性的プレイの前に宴が行われることがありました。雰囲気が寂しくなっていると引手茶屋がすかさず場を盛り上げてくれたり、芸者の手配などをしてくれたりしました。
また、妓楼に男性客が宿泊して遊ぶこともありました。そのときには引手茶屋の若い者が朝に男性客を起こしに来てくれました。いわゆる「モーニングコール」です。ただ、ときには「朝に若い者が男性を起こしに行ったところ、遊女とのプレイの最中だった」というトラブルもありました。
妓楼(ぎろう)の基本的な構造
このように妓楼への向かい方はさまざまな方法があり、男性客は自分に合った方法で妓楼を利用していました。
なお、吉原の風俗店である妓楼(ぎろう)は、全ての2階建ての造りになっていました。また、その造りは豪華であり、例えば大見世(現在の高級風俗店)は間口(幅)が約24m、奥行きが約40mもある壮麗な建物でした。
1階は奉公人(ほうこうにん)が活動する場
1階は妓楼で雇われて働いている人である「奉公人」が活動する場となっていました。妓楼は大きな店だと約100人もの奉公人が仕事をしていることがありました。それぞれの人が妓楼に住み込みで働いており、男性客は妓楼の奉公人の仕事や生活の風景を目にすることが多くありました。
遊郭の建物
男性客は通りから妓楼に入る際に、店頭にある張見世(はりみせ)という小部屋を眺めてから入店します。張見世には畳が敷かれており、遊女が待機しています。張見世の通りに面した壁は格子となっており、男性客が「遊女の品定め」をできるように中をのぞき見ることができました。
また、遊女が格子越しに煙管(きせる:吸いつけ煙草のこと)を渡すことがありました。男性は無料で一服することができ、吸い終わったら遊女に煙管を返しました。
さらに、1階の奥には行灯部屋(あんどんべや)という部屋がありました。江戸時代の街灯である行灯をしまっておくための部屋ですが、ほかにもさまざまな用途で使われることがありました。
遊女が病気になった際に寝かせたり、妓楼で遊女と遊んだものの料金を支払うことができない男性客を監禁するためにも使われたりもしました。
さらに、遊女と男性客の「個人的な色恋」の際にも行灯部屋がひそかに使われることがありました。
行灯部屋は多くの場合、日当りや風通しが悪い部屋でしたが、そこではさまざまな出来事が繰り広げられていたのです。
2階は遊女が活動する場
2階は遊女が活動する場となっています。2階の部屋の多くが遊女のための部屋となっており、1階で遊女を選んだ男性客は2階で女性と性行為を楽しみます。
遊女には階級があり、上級と下級で分かれています。上級遊女はさらに3種類の階級に分かれており、最も上の階級である「昼三(ちゅうさん)」は自分の生活用と男性客用の2部屋を持っています。
次に高い階級の「座敷持ち(ざしきもち)」は昼三ほど豪華ではありませんでしたが、同じく自分用と男性客用の部屋を持っていました。
上級遊女の中で一番下位の階級である「部屋持ち(へやもち)」は、自分の部屋を持っていましたが、男性客用の部屋はほかの遊女と共有する「廻し部屋(まわしべや)」という部屋を使っていました。
また、遊女の部屋以外に「遣手部屋(やりてべや)」という部屋がありました。妓楼には遊女の指導をする「遣手(やりて)」という女性がいます。吉原では遊女は27歳までの女性しか勤めることができないと決まっています。遣手は遊女として働き、27歳を超えた女性が担当することが多いです。
遣手は遣手部屋で生活しており、寝起きや食事も遣手部屋でしていました。
もうひとつ、「引付座敷(ひきつけざしき)」という部屋もありました。初めて妓楼を利用する男性客はこの部屋で女性と対面し、挨拶として盃(さかずき)を取り交わします。この場には遣手や若い者(わかいもの)と呼ばれる妓楼の男性スタッフも同席しました。
多くの男性客と奉公人でにぎわう妓楼
妓楼の基本構造は上記のようなつくりになっており、また妓楼には常に多くの男性客と奉公人がおり、にぎやかな雰囲気となっていました。
1階の格子には男性客が多く群がって遊女の品定めをするとともに、男性同士での他愛ない世間話が行われていました。世間話の中で男性が「2階で小便をしてきた」と言い、ほかの男性に見栄を張ることがありましたが、これは「妓楼の2階で遊女とあそんできたこと」を示すものでした。
また、奉公人は妓楼で生活をしていたため、食事の煮炊きが行われていることが多くありました。そのため、妓楼から食事のにおいや湯気が立ち上っていることもありました。
妓楼(ぎろう)で働いていた人々
妓楼は現代でいう風俗店ですが、そのつくりは今の風俗店とは大きく違ったものだったといえます。こうした妓楼には、さまざまな役割の人がいました。現代の風俗店には主に店長・ボーイなどの男性スタッフ・風俗嬢がいます。一方、妓楼で働く人たちの構成も現代の風俗店と似ていました。
それでは、遊女以外の妓楼にいた人たちにはどのような人がいて、どのような役割を担っていたのでしょうか。
楼主(ろうしゅ)
楼主は妓楼の経営者です。妓楼内に楼主専用の部屋が設けられており、楼主は家族と一緒に住むのが一般的でした。現在は風俗店の経営者と店長が異なることは多いですが、江戸時代の妓楼は店長と経営者は同じであることが多くありました。
楼主は妓楼の営業時間中、妓楼中に設けられていた内所(ないしょ)という場所にいました。妓楼内をくまなく見渡すことができるので、妓楼内の状況に目を配り監視をしていました。さらに、商人との商談や、新しく入ってくる遊女の対応なども行いました。
吉原の人々は楼主を「忘八(ぼうはち)」と呼ぶことがありました。人が持つべき心構えとして「八徳(はちとく)」というものがあります。
「仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・忠(ちゅう)・信(しん)・孝(こう)・悌(てい)」で、どれも「人が人徳を備えるために大切な心得」といわれました。
楼主は「八徳を全て忘れてしまった人」という意味で、忘八と呼ばれました。
妓楼は現代でいう風俗店で、日々対応する相手は商人や騒動を起こす男性客など、さまざまな人がいます。そのため楼主は高い経営手腕と管理能力が必要でした。
妓楼を経営していくには、ときに冷酷な対応をする必要があり、それが周りの人の目には「楼主は非情な人」と映ったのです。これが忘八と呼ばれた理由です。
しかしこのような人以外に、楼主にはさまざまな人がおり、中には教養を備えた人もいました。
吉原の遊女たち
遣手(やりて)
それぞれの妓楼に一人ずついたのが「遣手」と呼ばれる女性です。遊女を指導・監視する役割を担っていました。
遊女には年季(ねんき)という期間があります。「遊女として勤める期間は最長10年で、27歳まで」と決まっています。年季が明けても行き場がない遊女は、妓楼の遣手になることがありました。
遣手は自分の経験から、妓楼や吉原について知り尽くしており、遊女に指導を行っていました。
禿(かむろ)と呼ばれる「遊女になるために修行をしている少女」のしつけ、さらには遊女への男性客のあしらいかたや性行為の技術指導など、さまざまなことを教えていました。また、遊女が男性客に好意を持たないように「遊女を監視する役割」も担っていました。そのため、遣手の存在は非常に大きいものでした。
ただ、遊女や禿は遣手に叱られることが多かったため、遣手を嫌ったり恐れたりする女性は多くいました。
妓楼から遣手に対して、給金(きゅうきん:給料にあたるお金)は支払われていませんでした。代わりに男性客から祝儀(しゅうぎ:チップにあたるもの)をもらうなどして生活していました。祝儀を多く支払う男性客には良い遊女を積極的に紹介し、金払いの悪い男性に対しては遊女を遠ざけました。
若い者(わかいもの)
若い者は妓楼で働く男性の奉公人(ほうこうにん:雇われている人)です。若い者の仕事は多岐に渡っており、男性客の接客や妓楼内の風呂番、飯炊きなどを行いました。
厳密にいうと、接客を担当する男性が「若い者」、飯炊きや風呂番などの、いわゆる裏方仕事の担当は「雇い人」と呼ばれていました。また、若い者は仕事が多くあったため、複数の仕事を兼任している人も多くいました。
男性客は若い者と話したり、声をかけたりするときには「若い衆(わかいし)」や「若え衆(わけえし)」などと呼ぶことが多くありました。
また、若い者が作る料理は妓楼内で働く人のためのまかないです。ただ、男性客に出す「仕出し料理」などの豪華な料理は若い者が作るわけではなく、「台屋(だいや)」という料理店から取り寄せて提供するのが一般的でした。
このように、妓楼内には遊女だけでなくさまざまな役割の人がいました。そして、大きな妓楼の場合は楼主を筆頭として100人ほどの奉公人がいました。妓楼の構成は現代の風俗店と似ているものの、その様子からは江戸時代の文化が感じられます。