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江戸時代(1603~1867年)の吉原の遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)は男性客だけでなく、当時の女性からも憧れの的となっていました。非常に華やかな雰囲気をもつ遊女は、衣装だけでなく「髪型や髪飾り」にもこだわっていました。

遊女は美しさを売りにする仕事だったため、髪型や髪飾りでも時代の最先端をいくお洒落を取り入れていました。そこから、伝説として受け継がれるようななった遊女も存在します。

ここでは、江戸時代の遊女の髪型や髪飾り、さらには伝説の遊女について紹介します。

流行した遊女の髪型

現代でも流行のヘアスタイルがあるように、江戸時代にも流行の髪型がありました。遊女の髪型は流行の元となることが多くありました。その中でも特に人気となった3種類の髪型があります。

兵庫髷(ひょうごまげ)

ひとつ目は「兵庫髷(ひょうごまげ)」という髪型です。吉原が設立される以前から、江戸には「兵庫屋(ひょうごや)」という遊女屋(ゆうじょや:現代でいう風俗店)がありました。

兵庫屋の遊女たちは特徴的な髪型をしていました。吉原が設立されて兵庫屋の遊女たちが吉原に移ったとき、ほかの妓楼(ぎろう:風俗店のこと。吉原では風俗店を妓楼と呼んだ)の遊女たちが兵庫屋の遊女の髪型を真似たことから人気となりました。

hyougo兵庫髷(ひょうごまげ)

勝山髷(かつやままげ)

二つ目は「勝山髷(かつやままげ)」という髪型です。

当時人気が高かった遊女に「勝山(かつやま)」という女性がいます。勝山は「外八文字(そとはちもんじ)」という独特の歩き方を最初に始めた女性です。外八文字は「遊女ならではの優雅な歩き方」として人気となりました。

さらに、勝山は歩き方だけでなく、髪型も「勝山髷」として注目されました。勝山は武家の出身のため、「武家風」ともいわれる髪型でした。

katuyama勝山髷(かつやままげ)

さらに、勝山髷をアレンジした「丸髷(まるまげ)」という髪型も登場しました。丸髷は江戸時代の中期には遊女の間で流行し、江戸時代後期には一般女性の間でも人気を博しました。

島田髷(しまだまげ)

三つ目は「島田髷(しまだまげ)」という髪型です。

江戸時代には未成年の男子のことを「若衆(わかしゅう)」と呼びました。若衆は「若衆髷(わかしゅうまげ)」という特徴的な髪型をしていました。それを見た遊女がアレンジを加えて独自の髪型にしたのが島田髷です。

shimada島田髷(しまだまげ)

島田髷から派生したさまざまな髪型も生まれました。江戸時代後期の「つぶし島田」、まげの根元を高くした「高島田(たかしまだ)」、高島田よりもさらにまげの根元を高くした「文金高島田(ぶんきんたかしまだ)」などがありました。

江戸時代の初期のころ、遊女の髪飾りはシンプルだった

遊女は髪飾りを使っていましたが、江戸時代の初期のころに使用していたのは簡素なものでした。吉原が設立された当初は、政府により「遊女は質素な見た目にしなければいけない」という決まりが設けられていました。それに従い、遊女はシンプルな髪飾りにしていました。

初期のころに遊女が使っていたのが「笄(こうがい)」と呼ばれる道具です。遊女はこうがいを「髪型に付け加えるアクセント」として活用していました。

こうがいは「まげの乱れを整えるための道具」であり、男性も使っていました。当時、「女性用のこうがい」が市販されており、女性用のこうがいは実用性だけでなくお洒落なデザインのものが時代とともに登場しました。

時間が経つとともに遊女の髪飾りは豪華になった

江戸時代の後期になると、吉原の遊女の髪飾りは豪華になりました。衣装も華やかになっていたため、髪飾りもそれに合わせて見栄えがするものを身につける必要があったのです。

遊女はそれまでに使っていたこうがいに加えて、「簪(かんざし)」や「櫛(くし)」を使うようになりました。

遊女の中でも上級遊女は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、「花魁道中(おいらんどうちゅう)」というパレードのような行事を行っていました。その際には遊女は普段よりも豪華な衣装を着ていました。

花魁道中では、花魁は髪飾りとして大きなくしを2枚と長いかんざしを挿し、さらにこうがいを16本も挿して華やかさを演出しました。

また、これらの髪飾りは素材も非常に高価なもので、「鼈甲(べっこう:タイマイというウミガメの一種の甲羅を利用した工芸品)」や「象牙(ぞうげ:象の牙)」などを使用していました。

他に歴史に名を残した遊女

吉原の遊女はこのように、遊女は髪型や髪飾りにこだわりを持っていました。ヘアスタイルに関しても、まさに流行の最先端をいく「江戸時代のファッションリーダー」という存在だったのです。

そしてその中には、他にも「伝説の遊女」として、歴史にも名を残すほどの魅力を備えた女性もいました。

遊女は上級と下級に階級が分かれており、上級遊女の中でも際立って魅力的な遊女は特に高い人気を誇りました。ただ、最高峰の女性ではなくても、歴史に名を残す遊女はいました。

代々名前が受け継がれるようになった「高尾(たかお)」

遊女の中には高い人気を誇り、惜しまれながらも遊女としての仕事を終える女性がいました。その場合、後輩の遊女がその女性の名前を受け継ぐことがありました。代々受け継がれた遊女の名前として有名なのが「高尾(たかお)」です。

江戸時代の遊郭の記録は体系立てて書かれたものがないため、高尾の名が何代目まで受け継がれたかははっきりしていません。ただ、「京山高尾考(きょうざんたかおこう)」という文書には11代まで受け継がれた記録が残っています。

多くの遊女が名を受け継いだ高尾ですが、その中でも際立っていたのが「二代目の高尾」です。この遊女は「仙台高尾(せんだいたかお)」という呼び方をされることもあります。

仙台高尾の由来は、当時仙台の藩主(はんしゅ:江戸時代の各地にあった藩という小国を統括する人)であった伊達綱宗(だてつなむね)が二代目高尾を気に入って身請け(みうけ:お金を支払い、遊女を自分の妻にすること)したことによります。

伊達綱宗は二代目高尾を身請けするにあたり、二代目高尾の体重と同じ重さの小判を妓楼から要求されました。当時、それは莫大な金額でした。しかし伊達綱宗はそれを支払い、高尾を身請けしたのです。

吉原の流行の歩き方を作った「勝山(かつやま)」

吉原の遊女は「外八文字(そとはちもんじ)」と呼ばれる優雅な歩き方をしました。外側に股を開くようにして、八の字を描くような歩き方をすることからこののように呼ばれるようになりました。この歩き方を最初に始めたのが、先に述べた「勝山(かつやま)」という遊女です。

勝山は武家の生まれでしたが父親と喧嘩が絶えず、家を出て江戸に来て湯女風呂(ゆなぶろ:女性が身体を洗ったり、髪を洗ったりする銭湯)で働き始めました。その後に吉原に入って仕事をすることになり、遊女としても太夫(たゆう:上級の芸人)としても名を馳せました。

勝山の歩き方は特徴的で、「勝山歩き」として吉原の人から人気を博しました。勝山はその後、当時の遊女たちが身に付けていた「内八文字(うちはちもんじ)」という歩き方に対して、外八文字で歩くようになりました。

もともと勝山歩きで注目されていたため、勝山が行った外八文字はさらに人気を博し、吉原の遊女の間でスタンダードな歩き方となったのです。

そして先に述べた通り、勝山の髪型も人気でした。「勝山風」と呼ばれるヘアスタイルで、勝山髷(かつやままげ)は遊女だけでなく一般女性からも人気となり、勝山は歴史に名を残す女性となりました。

男性を想い、尼になった「佐香穂(さがほ)」

遊女の中には尼(あま:出家する女性)になる女性がときどきいました。その中でも歴史的に有名な女性が佐香穂(さがほ)です。その魅力から吉原の有力な名主(なぬし・みょうしゅ:町の役人)であった並木源左衛門(なみきげんざえもん)が佐香穂を気に入っていました。

しかし正保(しょうほう)二年(1645年)、佐香穂は突然に髪を切って町奉行所(街の政治を担っていた役所)に向かいました。そして、町奉行所の役人に「出家して尼になりたい」と申し出ました。

町奉行所の役人は困り果て、佐香穂と親密な関係にあった並木源左衛門に身柄を引き渡しました。しかし、佐香穂の尼になる決意は非常に固く、源左衛門はその想いを尊重しました。「貞閑(ていかん)」という名前で出家が許された佐香穂は、鎌倉で80歳ほどまで生きました。

佐香穂がこれほどまでに尼になることにこだわったのは、「梅(うめ)」という男性をとむらうためでした。梅に関する情報はあまり残っておらず、武士だったという情報以外は分からない点が多くあります。ただ、佐香穂と梅は恋仲の関係にありました。

佐香穂はある日、梅が殉死(じゅんし:仕えていた主君のあとを追って自殺すること)したことを知りました。そして彼をとむらい、二人の恋を成就させるために尼になる決意をしたのです。

このように、江戸時代の吉原には伝説として現代まで名前が残った遊女がいました。それぞれの遊女に違ったエピソードがあり、非常に興味深いといえます。

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