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吉原の遊女(現在の風俗嬢)は人によって送る人生が異なりました。江戸時代、遊女には年季(ねんき)という「遊女として仕事をする期間」がありました。また、吉原では「年季は最長で10年、27歳まで」という原則がありました。

ここでは吉原で勤める遊女の人生や、年季を終えたあとの人生、さらには人身売買の仕組みについて紹介します。

吉原を抜け出すことができる「身請け(みうけ)」

吉原で遊女となる女性は、一度吉原に入ると年季の期間中は抜け出すことができません。しかし、女性によっては「身請け」というものが行われ、吉原を出ることができる場合がありました。

身請けは「妓楼(ぎろう:現在でいう風俗店)が所有している年季証文(ねんきしょうもん)という契約書類を男性客が買取り、遊女の身柄を引き受けること」を指します。人身売買にあたる行為で、違法ではありましたが妓楼と男性客の間で取引されることがありました。

身請けの例として、元禄(げんろく)十三年(1700年)に「松葉屋」という妓楼の遊女が350両で身請けされました。大体の目安として、「1両=10万円」と考えると分かりやすいです。上記の例では3,500万円となり、破格の値段での身請けだったことが分かります。

さらに安永(あんえい)四年(1775年)には、同じく松葉屋の遊女が1,400両で身請けされました。1億4千万円の金額にあたり、江戸中で話題となりました。

全ての身請けがこのような破格の金額ではありませんでしたが、一般的に身請けには莫大な費用がかかりました。男性は妓楼に年季証文の買取り金を支払うだけでなく、送別会の費用を支払ったり、妓楼内の関係者にも金品を送ったりしました。男性客はこれらを全て負担してでも遊女を自分のパートナーにしたかったのです。身請けがあると妓楼は大きな利益を得ました。

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多くの遊女は世間を知らない

身請けは遊女にとっても名誉なことでした。しかし、身請けはごく一部の女性に限られました。女性が才色兼備であることに加え、「運」も兼ね備えている必要がありました。ほかの女性は年季をひたすら待ちながら遊女としての勤めを全うするしかありませんでした。

ただ、年季の明けた遊女がいわゆる「素人の女性」に戻ろうとしても、実は難しい面がありました。それは、遊女は「江戸時代の一般世間の女性とはかけ離れた生活をしてきたため」です。

特に幼い少女のころから吉原に入った女性の場合、遊女としての生活しか知らないことが多くありました。一般世間の女性は炊事洗濯などの家事をするのが常識でした。しかし、吉原の女性はまったくといってよいほど家事ができず、世間の常識もありませんでした。

吉原は常に華やかな雰囲気があり、「江戸のテーマパーク」のような存在でした。遊女はその環境で長く過ごしてきたため、年季が明けて素人女性になろうとしても、なれないことが多かったのです。

庶民の男性の中には「吉原の女性は遊女として遊ぶのは楽しい。ただ、女性が素人になってからは愛想を尽かしてしまった。髪も整えず、家事もしない。貧乏人の自分には面倒を見切れない」と言葉を漏らす人もいました。

吉原を出て、遊女として一生を終える女性もいた

遊女としての年季を終えたにもかかわらず素人に戻れない女性は、吉原を出てほかの地域の遊女として生きることが多くありました。

吉原の遊女は政府から認められていた「公娼(こうしょう)」という立場でした。また、吉原に次いで「準公娼(じゅんこうしょう)」として政府に認められていたのが宿場(しゅくば)と呼ばれる「現在の品川・板橋・新宿・千住」の遊女です。吉原を出て、これらの地域で遊女として働く女性もいました。

さらに、女性によっては「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる場所で遊女として働くことがありました。江戸の各地にひそかに存在し、違法に営業されていた風俗街が岡場所です。

こうした場所では女性は「吉原の出の遊女」として男性客から評判となることが多くありました。遊女の中には、「一生遊女として生きるしかない女性」が多くいました。

身売りで吉原の遊女となる女性は多かった

身請けのように華やかな人生を送る人もいれば、素人に戻りきれずに遊女を続ける人など、女性によってさまざまでした。

このとき、吉原の遊女は妓楼で働く奉公人(ほうこうにん:雇われている人)という立場でした。妓楼で奉公するために遊女は「証文(しょうもん)」と呼ばれる契約書類を取り交わしていました。

しかし実際には、遊女は「人身売買で奉公することになるケース」が多くありました。親が十分な収入を得られず家庭が貧しくなり、娘を妓楼に売り渡していたのです。親は娘を売り渡すことで妓楼から娘の給金(給料にあたるもの)を前借りすることができ、生活をしのいでいました。これは違法な行為でしたが、生活に困る人はたくさんいたため、裏で取引されることは多くありました。

人身売買の仕組み

女性の人身売買の仕組みは大きく分けて2通りありました。

ひとつは「親や親類が娘を直接妓楼に売る場合」です。こうすることで、女性が遊女として得る給金を前借りすることができます。

もうひとつは「女衒(ぜげん)と呼ばれる業者に娘を売り、女衒が妓楼に女性を売り渡す場合」です。女衒は人を買うことを仕事にしている業者です。江戸時代において人身売買は違法でしたが、貧困から「娘を売りたい」と考える家庭は多くあり、政府の目を逃れて営業していました。

吉原は江戸の近くにあり、妓楼に親が直接出向くことができないケースが多くありました。そのため親は各地の女衒に娘を売ることにより、吉原まで足を運ぶ必要がなかったのです。

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身売りの金額

女性が身売りとして出される際の金額は、現在まで残っている江戸時代の史料(歴史の研究に使う文献など)から知ることができます。

江戸時代の見聞をまとめた「世事見聞録(せじけんぶんろく)」という書物によると、越中(現在の富山県)・越後(新潟県)・出羽(山形県・秋田県)の農村の家庭が生活に困り、三~五両で娘を売っていたという記録があります。

金額を現代に換算すると「一両=約10万円」です。つまり、上記の地域の親は、娘を30~50万円ほどで人身売買していたことになります。この金額は非常に安いといえます。

前述の地域は江戸から離れているため、売り渡す相手は女衒でした。女衒が妓楼に女性を売る際には上記の金額に利益や経費を上乗せして、これより高い金額で販売していました。

妓楼は買い取った女性を指導して、一人前の遊女に育てる必要がありました。一般家庭の女性は遊女としての「即戦力」とならないため、安く買われていたのです。

また、女性によっては高い値段で売買が行われることがありました。江戸時代には武士の存在があり、武士の娘はいわゆる「上玉」と見られていました。下級武士の家庭では生活が苦しくなることがあり、娘が自分から身売りに出ることもありました。

この場合、女性は約十八両で取引がされていました。それでも現在の金額に換算すると180万円ほどです。

競売にかけられる女性もいた

女性によっては競売にかけられることがありました。吉原は政府から認められた遊郭でした。ほかの地域にも「遊里(ゆうり)」と呼ばれる「女性が集まっている現在でいう風俗街」が多くありました。その多くは違法に営業されており、地域の奉行所(地域の行政を担当する役所)が取り締まり、摘発していました。

取り締まりを受けた女性は競売にかけられ、吉原に身売りされることが多くありました。「藤岡屋日記」という史料にその記録が残されており、金額が記載されています。多くの女性が二~七両ほどで競り落とされており、現代の金額では20~70万円ほどです。

各地の遊里の女性は遊女として経験があるため「即戦力」の人材でした。しかし、それを考慮しても非常に安い金額で取引されていました。

吉原で遊女と遊ぶための料金である「揚代(あげだい)」は非常に高い傾向にありました。一方で、妓楼が女性を買う際の値段は非常に安い傾向にありました。

したがって、妓楼は買った女性を「吉原の遊女」として育て上げ、妓楼で働かせることで大きな利益を得ていたといえます。

吉原は遊郭として非常に華やかな雰囲気の街でした。しかし、その裏側にはこのような女性の人身売買の仕組みがあったのです。

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